見もの・読みもの日記

興味をひかれた図書、Webサイト、展覧会などを紹介。

2014オホーツク海沿岸旅行・紋別

2014-08-18 21:35:30 | 北海道生活
 8/18(月)終日、紋別に滞在。しかし、月曜は博物館などの文化施設が休みなので、行先に困る。まずタクシーをたのんで、紋別市の市街地の背後(西側)の山頂にある展望塔オホーツクスカイタワーに行ってみる。港の眺望はこんな感じ。展望台には北海道大学低温科学研究所の観測装置も備え付けてあった。ちなみに、スカイタワーから見たオホーツク海のライブ画像はこちらで公開中。本日8/24(日)14:30現在は、雨雲の中にあるらしく何も見えない。



 次に旧上藻別(かみもべつ)駅逓所を訪ねる。開拓時代の駅逓制度と、この近くにあった鴻之舞(こうのまい)金山の資料館になっているが、月曜は休館。しかし、国登録有形文化財である建物だけでも見ておくことにした。最近、韓国映画のロケ地にもなったそうだ。



 話好きのタクシーの運転手さんは、さらに山間部に入った鴻之舞金山の生まれだという。自分は遠軽(えんがる)の学校に通ったので、上藻別には縁がなかったが、紋別に出るときはこのへんを通りました、と懐かしそうだった。横浜に住んでいたことがあって、今でも秋谷の知人からシラスを送ってもらうというので、一時期逗子市民だった私も葉山の海を懐かしく思い出す。

 市南部の観光地区(ガリヤ地区)でタクシー下車。流氷砕氷船「ガリンコ号II」によるオホーツク海クルーズ(30分)が11:30から出ると聞いていたのだが、完全予約制で10人以上の予約がないと運航しないとのこと。残念。しかたないので、海洋交流館向かいの「オホーツクとっかりセンター」で、えさやりタイムを見学することにする。「とっかり」はアイヌ語に由来し、北海道方言でアザラシのこと。



 これがまた…予想外にというか、予想以上に可愛くて、楽しかった。飼育員のお姉さんが登場すると、プールの中からオスのアザラシ6頭が、呼びもしないのにプールサイドに上がってきて、それぞれ定位置につく。1匹ずつ名前と特徴を紹介してもらい、「お口あーん」とか「お腹見せてごろーん」とか大した芸でもない芸を見せたあと、魚をもらう。最後に「ふれあいタイム」があって、観客もアザラシの背中を撫ぜたり、一緒に写真を撮ることができる。同行人におとなしく撫でられていたカズキくん(↓)。飼育されているアザラシの名前は、保護してくれた人や船から貰うことが多いそうだ。



 立ち去りがたくて、プールサイドをうろうろしていたら、係員のおじさんに話しかけられ、観光用の飼育アザラシとは別に、保護・治療中の仔アザラシがいるのを窓から見せてくれた。連れてこられたアザラシは、怪我や病気が治れば海に戻すことが基本なので、名前はつけない。このおじさんも神奈川県の学校に通っていたことがあるそうで「京急の弘明寺(ぐみょうじ)に住んでいました」とか、とんでもなく懐かしい地名を聞いてしまう。

 ゴマちゃんのあとは、われわれの給餌タイム。海洋交流館の食堂でラーメンと餃子とビール。網走で飲めなかった地ビール「流氷ドラフト」が飲めてうれしい。写真で見ていた「青いビール」は、ちょっと毒々しいと思っていたが、実はそんなに青くなく、なかなか美味しい。



 食後は海中展望塔のオホーツクタワーに行ってみて、海中階にある水族館で遊ぶ。「開き」になっていないホッケの姿を初めて認識。さらにオホーツク流氷科学センター(GIZA)へ。マイナス20℃が体験できる「厳寒体験室」もある。オホーツク海が、氷結する海としてはかなり異例の南方に位置する。にもかかわらず氷結するのは、アムール川(黒龍江)から大量の真水が流入し、表層と海底の塩分濃度に差があって対流が起こらないためであるそうだ。

 流氷科学センターの少し先にある謎のモニュメント(↓)。元来はアートフェスティバルのために作られ、親子鮭やホタテ貝の巨大オブジェ仲間が周囲にいたらしいが、こうなってみると、紋別市街を守る道祖神(さえのかみ)みたいで面白い。



 こうして、のんびりした1日が終わり、バスで市中心部に戻る。今回の旅行、どの食事も美味しかったがこの夕食は格別でした。ホタテの刺身、はまなす牛(※紋別町、滝上町で生産された乳用肥育牛)の陶板焼き、カニ釜飯!



(8/24記)
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2014オホーツク海沿岸旅行・網走→常呂・湧別・紋別

2014-08-17 14:09:20 | 北海道生活
 8/17(日)網走駅前から、朝7時台のバスで常呂(ところ)へ。今回、網走から先は、もっぱら路線バスで移動する旅行だったが、どの町にも雨風除け(むしろ風雪除けか)のできる立派なバスターミナルがあり、たいがいは旧国鉄駅舎が利用されていた。常呂のバスターミナルもそのひとつ。ここでサロマ湖畔に向かうバスに乗り換え、サロマ湖栄浦バス停で下車(※なお、市町村合併で「常呂町」がなくなってしまったため、常呂バスターミナルは、現在、北見市交通ターミナルと呼ばれているが、道外の人間にはちょっと混乱を招く名称だと思う)。

 駐車場の奥に「ところ遺跡の森」が広がる。午前9時からの「ところ遺跡の館」は、ちょうど開館したばかり。係員の方に勧められて、はじめに約9分のビデオ上映を中央ホールで見た後、円形施設の展示を見ていく。ここで、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代/オホーツク文化→アイヌ文化という、北海道独特の時代・文化区分と、本州の時代区分との対応をはじめて理解する。東漸(北進)する弥生文化がついに到達しなかった結果、北海道には「続縄文」という独特の時代があること、縄文・続縄文時代が物質的にも精神文化的にも豊かな時代であったこと、同時代の擦文文化とは異なり、謎の多い「オホーツク文化」のこと、先住民と言われる「アイヌ」が意外と新しい文化であることなど、雪崩れのように新しい知識が入ってきて、面白かった。

 周辺の森は遺跡公園となっており、縄文の村・続縄文の村・擦文の村と名付けて、各時代の住居跡が保存され、復元住居も建っている(かなり壊れていた)。アイヌのチャシ(砦)跡もある。森の中を歩いて、久しぶりに盛大に蚊に刺された。

 少し離れて、東京大学文学部が所管する常呂資料陳列館(↓)と実習施設も建っている。陳列館は無人で、自分で照明をつけて参観する。「ところ遺跡の館」の中に「東京大学文学部常呂研究室」という表札のかかった部屋があったので、担当者はそちらに常駐しているのかもしれない。東大文学部が常呂とかかわりを持つことになる、そもそもの「縁起」も小説みたいで面白かった。



 湖畔の食堂で少し早めの昼食。ホタテづくしが美味。タクシーを呼んで、計呂地(けろち)までサロマ湖畔ドライブ。計呂地のバスターミナル(交通公園)には、旧国鉄時代の駅舎と車両が残されていた。向かって右は、排雪板(ブレード)を装着したラッセル車。客車を利用した簡易宿泊施設も設けられていて、バイクや自転車で節約旅行をする旅行者に提供されている。



 われわれは再び路線バスで中湧別に移動。中湧別バスターミナルは、今回訪ねた中でも印象に残る堂々とした構えで、漫画美術館のある「中湧別文化センターTOM(トム)」を併設。ここで紋別行きのバスに乗り換えて10分ほど、チューリップ公園の一角にある郷土博物館「ふるさと館JRY(ジェリー)」に向かう。名前の由来は「トムとジェリー」なのだそうだ(え?)。屯田兵村の歴史資料を展示する博物館だというが、いかにも「箱もの」的な外観に辟易して、あまり期待しないで中に入る。



 そうしたら、ここも意外と面白かった。私は古代史や考古学にも興味はあるが、こういう近世・近代のアーカイブ資料(文書および実物)はさらに大好物なのである。同一矩形の壁面収納棚を使って、変化を持たせた展示方法も面白い。



 私は、屯田兵制度についてもほとんど無知で、たとえば全国各地からの寄せ集めで隊が編成されたこと(互いに言葉が通じなくて困ったらしい)や、明治37年(1904)に屯田兵制度が廃止されると郷里に帰る者もいたこと(みんな北海道に土着したものと思っていた)は初めて知った。

 展示資料は町民の家から集めてきたのだろうが、東京なら戦時中の空襲で焼けてしまったり、とっくにゴミとして廃棄されてしまった時代の資料がよく残っている。そして、その資料の背景史をじっくり調べて、手際よく解説してくれているので、どのコーナーも見ごたえ(むしろ読み応え)があった。単に「屯田兵」一般の歴史を語るのではなく、この地域に生きたひとりひとりの固有名詞や「顔」に対する愛着や敬意が感じられて好ましかった。外観だけで「箱もの」扱いして申し訳なかった。いい学芸員さんがいるんだな。

 一番気に入った展示物(↓)。茶箱(むかし、私の祖母も物入れに使っていた)に、なぜか行政文書の反故紙がびっしり張りめぐらされている。内容は銃を紛失した始末書など。



 「屯田兵」って、日本全国の小中学生が教科書で習うものだから、こういう展示をそっくり首都圏の歴史博物館などに持ってきてくれたら、そこそこお客が入るのではないか、と思ったが、移送費だけでも赤字になるのかなあ。

 同じバス停から紋別に向かう。天然温泉のある紋別プリンスホテルに今日から2泊。中心部の定食屋で夕食をとっていると、暗くなり始めた港で花火の打ち上げ音。友人の話では、7月末に行われるはずだった「もんべつ観光港まつり」の花火大会が悪天候で今晩に順延になったのだという。港に行って、紋別の人々に立ち混じって、しばらく花火を見物。花火は豪勢だが、観客はのんびりムードで子どもの頃の地元・江戸川の花火大会を思い出す。ほどよく涼しいのもありがたい。

(8/24記)
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2014オホーツク海沿岸旅行・網走まで

2014-08-16 11:01:41 | 北海道生活
 前日8/15(金)「明日から夏休み」宣言をして職場を出る。東京から来札した友人と、まずは再会の祝杯。大通りのビアガーデン最終日に行こうと思っていたけど、あんまり涼しい(寒い!)ので、適当なお店の店内で飲むことにする。翌朝の出発が早いので、早めに切り上げ。

 8/16(土)朝7:21札幌発の特急「オホーツク1号」に乗車し、旭川、遠軽、北見などを経由して(地図を片手に、へえ、こういうルートをたどるのか!と車中で驚く)12:46網走着。5時間を超える列車旅って、日本国内ではいつ以来だろう? 北海道の広さを実感。

 駅前のホテルに荷物を置いて、路線バスで少し郊外の「博物館 網走監獄」へ。日本美術応援団こと赤瀬川原平さんと山下裕二さんの『実業博物館』(文藝春秋 2007)で知って以来、行ってみたいと切望していたもの。正確には、2005年のトークイベントで話を聞いて以来だから、10年越しの念願がかなった!



 門前のレストランで「監獄食」の昼食。職場の仕出し弁当より健康的で美味しい。「麦3:白米7」の麦飯うまいわー。炊いてみようかな。



 構内には多数のマネキン(囚人、監守、面会者など)が設置されており、いい味を出している。一緒に記念撮影できるものもある。首が動いたり、声を出したりするものもあって、芸が細かい。



 ↓(私の)職業柄、こういう小道具も気になる。



 同行の友人も「もっと子供だましかと思っていたら、意外と面白かった」と満足。長い時間を過ごしすぎて、ちょうどいいバスの便がなくなってしまったので、次の目的地の北方民族博物館まで、だらだら坂を30分以上歩く。結局、タッチの差で次のバスに追い抜かれることに。

 しかしこの北方民族博物館、私には意外と面白かった。北海道の北方民族だけでなく「東はグリーンランドのイヌイト(エスキモー)から、西はスカンディナビアのサミまで、ひろく北方の諸民族の文化を対象」とした博物館で、衣食住・宗教祭祀・技術工芸など、具体的な展示品が分かりやすく、また美しくて楽しめた。大林太良氏(このひとの本も好きだったな~)が初代館長でいらしたことを知ったのは、後日の話。

 最終の路線バスで町の中心部に戻る。本物の旧網走監獄の門が移築されて残るという永専寺を見に行く。この寺の僧侶が網走監獄の教誨師を務めた縁から払い下げられたもの。



 なお、この日は網走神社の例祭(祭日は8/15)で、中心部の大通りには延々と露店が並び、びっくりするような人の多さだった。ホテルが素泊まりなので、通りがかりのパン屋さん「アトランテ(ATLANT)」で明日の朝食のパンを買ったら、けっこう美味しかった。次に行くときまで営業してるといいな。

(8/24記)
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林家三代の復権/江戸幕府と儒学者(揖斐高)

2014-08-13 12:27:25 | 読んだもの(書籍)
○揖斐高『江戸幕府と儒学者:林羅山・鵞峰・鳳岡三代の闘い』(中公新書) 中央公論新社 2014.6

 歴史上、著名ではあるが、全く関心を持たれない人物というのがいる。林羅山もそのひとりだろう。徳川将軍家に仕えた儒学者・林家の祖ということで、たぶん高校レベルの日本史では暗記必須の人名である。しかし、具体的に何を祖述したか、どんな人物だったかは、ほとんど問われることがない。私自身もそうだったが、今年2月、国立公文書館の企画展『江戸幕府を支えた知の巨人-林羅山の愛読した漢籍-』を見る機会があって、はじめて「羅山」という名前に、血の通ったイメージを持つことができた。思っていたよりも苦労の多い、懐の深い「愛すべき大学者」であることが分かったので、先ごろ本書を見つけて、読んでみたくなった。

 林羅山(1583-1657)は京都四条新町の生まれ。おお、祇園祭の「船鉾」が立つ通りである。本書は、羅山と言えば最もよく知られた「方広寺鐘銘事件」(1614)を最初に取り上げ、検証する。鐘銘問題を家康に入れ知恵をしたのは、天海か崇伝あたりで(徳富蘇峰の説)、当時32歳の羅山の関与は限定的なものであった。確かに羅山にとって重要なことは、幕藩体制に寄り添って、儒学(朱子学)を世間に広めることであり、その実現のためには、理論的整合性より現実との妥協を優先することもあった。しかし、これを現実主義者と呼ぶか理想主義者と呼ぶかは措くとしても、「曲学阿世」という批判は当たらないだろう。

 羅山が「公」と「私」を使い分けていた一例として示されているのが「太伯皇祖論」という歴史認識である。これは、周の文王の伯父の太伯が日本に渡来して、天皇家の先祖となったというもの(いま、こんなことを主張したら大炎上だろうな)。羅山は「(儒教の理想である)王道一変して神道に至る」という視点から「理当心地神道」を提唱し、若狭小浜藩主の酒井忠勝に著書を授け、「神儒一致」の具体的な証拠を整備しようとして『本朝神社考』を編纂している。おもしろいなー。しかし、羅山から息子の鵞峰に引き継がれ、編纂された歴史書『本朝通鑑』は、太伯皇祖論を採用していない。幕府の公式見解が異なるからだ。公務の歴史書編纂は「公(幕府)」の見解に追随し、「私(林家)」の歴史観は私の歴史観、という冷静な判断だろう。ある意味、21世紀の日本の議員や政治家より、よほど大人である。

 羅山が、詩文大好き・怪力乱神大好きな、幅広い読書家であったことは、国立公文書館の企画展からもうかがえたが、さらに本朝(日本)の文学にも強い関心を抱いていたことは、初めて認識した。交友範囲の中に、俳人であり歌人(歌学者)である松永貞徳の名前がサラリと登場するので、えっ?と驚いたが、かなり親しいつきあいがあったようだ。そして「倭学(日本古典学)」は、林家塾の重要な教育カリキュラムでもある。これは新鮮な発見だった。

 二代目・林鵞峰(がほう、1618-1680)は羅山の三男。羅山の死によって中断した『本朝編年録』の編纂を引き継ぎ、『本朝通鑑』として完成させる。編纂作業のために幕府から措置された国史館の施設と人員・月俸は、そのまま林家塾が使用することを許された。本書に詳しく紹介されている林家塾の教育システムは、非常に整ったもので、スペシャリストとジェネラリストの養成が配慮されていたり、教員のオフィス・アワーがあったりする。そして、繰り返していうが、幕府の儒官である林家塾で「倭学(和学)」が講じられていたというのは、これまで私に見えなかった事実であった。

 鵞峰は「一能子伝」という自伝的な文章(托伝=架空の人物に托した自伝)を残している。これがよい。実によい。本書を読むまで、羅山以上に何も知らなかった鵞峰という人物に、私は強い愛着を感じるようになった。と思ったら、本書の著者も「あとがき」で、鵞峰の「一能子伝」論を書いたことで「私のなかの林家の人物にようやく血が通い始めた」と告白している。分かる分かる。

 鵞峰先生曰く、二十余年も儒書を講読してきたが、将軍から「侍読の召し」があったこともなく、歴史を研究して歴代の事蹟に通じていても「鑑戒の問ひ」を受けたこともない。残念ながら「唯だ今古の事を知るを以て、時有りて徴され、事有りて問はる」程度の諮問にあずかるくらいが関の山だ。この、自分の潜在能力に対する強い自負と不遇意識。しかし、全く無駄に禄を食んでいるわけではない、なすべきことをなせばよい、という葛藤と自足。なんだか共感してしまい、全部原文で読みたくなった。

 三代目・林鳳岡(ほうこう、1645-1732)のとき、林家塾は湯島に移転し、蓄髪を命じられる(許される)。これ以前、幕府の職制には儒官としての職がなく、羅山も鵞峰も「僧侶」として徳川家に仕えてきたのだ。五代将軍・綱吉の信頼を得て、磐石の体制を整えたかに見えた林家であったが、六代・家宣は新井白石を重用し、林家不遇の時代が続く。八代・吉宗は、綱吉の時代を慕って、再び林家に期待を寄せるが、すでに林家の学問には凋落の兆しが見えていた。このへんの歴代将軍の確執と御用学者の浮沈関係も、生臭くて面白かった。

 最後に著者は「あとがき」で、伊藤仁斎や荻生徂徠の古文辞学が「相応に、あるいは過剰に」評価されているのを見るにつけても、江戸期朱子学と林家は再評価されるべきではないかと思ってきた、と述べている。私は、70年代の高校生の頃、古文辞学派を通じて、儒学の面白さに目を開かれた人間であるが、今後は文献の上で、林家の人々とも楽しくつきあっていけそうに思う。江戸の絵画が、奇想派だけのものではないとして、狩野派の再評価を説いている安村敏信先生のお仕事をちょっと思い出した。
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ソクラテスのカフェでトーク:「原武史が語る生活の中の政治」

2014-08-10 21:16:59 | 行ったもの2(講演・公演)
 「ソクラテスのカフェ」というのは、札幌市西区琴似にある「古本と珈琲のブックカフェ」である。厚別区大谷地に移転してしまった「くすみ書房」という書店があったところ。いまもくすみ書房さんが運営していて、ときどき、イベントを開催している。

 8月9日(土)18:30から「原武史が語る生活の中の政治」というトークイベントがあったので聴きにいった。新刊『知の訓練:日本にとって政治とは何か』をもとに語るという案内だったが、主題を「女性と政治」それも皇室論にしぼった内容で、非常に面白かった。会場が狭いので、講師の顔の見えないテーブルで声だけを拝聴する2時間(ラジオ講座みたい)だったが飽きなかった。旧著『昭和天皇』や『松本清張の「遺言」』を思い出しながら聴いた。

 札幌に暮らし始めてから、何度かこうしたトークイベントに足を運んでいるが、いつも参加者の年齢層が高いという印象が強い。今回は、大学生くらいの若者の姿もあって、よかった。

耳より情報(だと私が思ったこと)を書きとめておく。

・来月、宮内庁から『昭和天皇実録』が公開される。(おお!)

・12月か1月に原先生の『皇后考』(雑誌「群像」連載)が講談社から刊行される。(わーい!)

・東大社会科学研究所の助手時代に、初めて大正天皇研究の報告をしたときの反応はボロクソだった。「なぜあんな馬鹿天皇を…」と言われた。(笑)

・(女性皇族に注目したきっかけは?と問われて)結婚して、うちの奥さんと一緒に暮らして、女性って分からない生き物だなあと思ったことから。ふだんは優しくても、突然、荒れ狂ったように攻撃的になるとか。失敗しても、ケロッと過去を忘れて立ち直るとか。(笑)

 包み隠さず、率直なお話(笑)をありがとうございました。

 参加費は、ドリンク(ソフトドリンクまたは缶ビール)とクッキーつきで2,000円。機会があれば、また行きたい。

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札幌・夏の花

2014-08-10 20:12:40 | 北海道生活
八月初旬、晴れた日は札幌の気温もかなり上がる。しかし、太陽が高くなっても、まだ元気に花が咲き続けていられるのだから、東京人の感覚では涼しいと思う。

ノアサガオ(?)。調べたら、ヒルガオの一種らしい。濃紺色の小さな花が涼しげ。



コスモス。歩道と車道の境で揺れるコスモスを見ると、中国を思い出す。華北でも東北でも、それから西部の新疆ウイグル自治区でも、市街地を離れた高速道路の路傍には、延々とコスモスが咲いていた。


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中国古典に遊ぶ/悟浄出立(万城目学)

2014-08-09 17:08:07 | 読んだもの(書籍)
○万城目学『悟浄出立』 新潮社 2014.7

 万城目さんは、ほとんど同時代小説を読まない私が気にしている数少ない作家。と言ってもドラマで見た『鹿男あをによし』と原作を読んだ『プリンセス・トヨトミ』くらいしか知らないが。新刊書の棚で本書を見て、おや、今度は中国(西遊記)ネタなんだ、と思って手に取り、ふらふらと買ってしまった。

 中国の故事に取材した短編が5編。新潮社の雑誌「yomyom」に不定期で連載されていたシリーズらしい。どれも面白かったので個別に感想を書く(以下、ほぼ内容ネタバレ。しかし、粗筋が分かったら魅力が失せるという作品ではないので、敢えて書く)。

■「悟浄出立」:おなじみ「西遊記」の取経の旅の面々を「俺」すなわち悟浄の視点から描く。これはどうしたって、中島敦の『わが西遊記』(「悟浄出世」「悟浄歎異」の二編)を思い出さざるを得ないだろう。考えるより先に行動する悟空、欲望に正直な楽天家の八戒に対して、自意識に捉われた懐疑主義者の悟浄。小説と呼べるほどの展開はないけれど、地味に愛読者の多い作品ではないかと思う。

 そして、万城目さんの「悟浄出立」でも、やっぱり悟浄は、観察者のポジションにいる。中島敦と似すぎじゃないかな、と思ったが、本作品の個性が発揮されているのは、八戒の造形。かつて天界において「天蓬元帥」を名乗った時代、八戒は頭脳の鋭敏さ、用兵の妙で知られた希代の名将だった。あるとき八戒は、悟浄に請われるままに静かに語って聞かせる。いくさの極意は指揮官の精神を討つことだ。将兵のぶつかり合いなど壮大な茶番に過ぎない。そう考えて、過程を貶し、終着点にのみ価値を見出していた俺は、至上の美女・嫦娥をねらって月宮に忍び込み、捉えられて、地上に落とされてしまった。

 八戒は、取経の旅の中で、過程こそがいちばん苦しく、そこに最も貴いものが宿ることがある、ということを知る。そのことを、旅の中で確実に成長していく悟空の姿によって知ったという。「あのサルは大したもんだよ」。悟浄は、これまで彼らの最後尾をついてきただけの自分を省み、思い切って「しばらく先頭を歩いてもいいかな」と申し出る。

 観察者から行動者への一歩、という主題は中島敦作品と通底しているが、現代読者にとって、より分かりやすい書きぶりになっている。でも日本人って、どうしてこんなに「西遊記」が好きなのかなあ。素朴な原典を換骨奪胎して、近代精神に即した名作を生み出す頻度は、本国(よく知らないけど)以上じゃないかなあ、と思った。

■「趙雲西航」:長江を下り、蜀の地を目指す船団。そこには、劉備麾下の名将、趙雲と張飛、さらに軍師、諸葛亮の姿があった。五十歳になった趙雲は、船酔いに悩まされ、どこか気分がすぐれない。まだ若い諸葛亮は、蜀に自分の国をつくるという希望に燃えている。兄者・劉備のいるところこそわが故郷だという張飛。彼らの言葉を聞きながら、趙雲は自分の心の底にひそむ不快の原因を探り当てる。

 趙雲は十七歳で華北の常山郡真定を飛び出し、劉備の軍に従った。いつか故郷に華々しく帰還することを望みながら三十年が過ぎてしまった。そして、この旅は、蜀の地に根づくということは、故郷との永遠の別れとなるだろう。ううむ、この「深い哀しみ」は、少なくとも中高年以上でないと分からないかな。そして、華北の常山と蜀の成都の絶望的な距離感が分からないと。

 ダニエル・リー監督の映画『三国志』でも主人公の趙雲(アンディ・ラウ)は、故郷の常山に強い思いを持ち続け、魏軍と戦うため、六十歳を過ぎて、ついに故郷に戻ってくるという描かれ方をしていた。何か典拠があるのだろうか。私は、2009年の夏に訪ねた常山(河北省正定県)を懐かしく思い出した。

■「虞姫寂静」:垓下の地で、漢軍に包囲された項羽の軍。項羽は、咸陽の都から己に従ってきた女に別れを言い渡す。「汝は虞ではない」。女は咸陽の後宮の使い女だった。項羽には、かつて失われた虞という妃がいた。その妃に生き写しだったため、女は形見の簪と耳飾りを与えられ、虞という名を与えられて愛された。しかし最後の時を迎え、項羽はそれらを全て取り上げようとした。

 女は項王の勝利のため、渾身の舞を舞い、再び虞という名前を賜ることを願う。「虞や」と王は歌う。「虞や虞や若(なんじ)を奈何せん」。そして女は自刃する。この短編は巧いな~と感じ入った。「虞や虞や」という、具体的な人名を入れた詩(古代歌謡)というのは異例だと何かで読んだような記憶があり、その理由を解き明かす物語になっている。

■「法家弧憤」:主人公のケイカは咸陽宮に出仕する下級官吏。李斯の指導する政(まつりごと)に従い、せっせと法令を竹簡に書き写す仕事に従事していた。あるとき、自分と同姓同名の刺客が皇帝を襲ったことを知り、かつて邯鄲の町役場の書記官の採用試験で、自分と競って落ちた荊軻という男のことを思い出す。

 法こそ世界を束ねる唯一の存在と信じる法家の徒と、世界に火種をもたらすテロリストの一瞬の交錯。善悪を単純に判断させない描き方である。面白いのだけど、創作された主人公の姓名が「京科」というのは、なんとなく和臭を感じて、気になってしまった。いちおうピンインは合っているし、中国人の姓に「京」はあるらしい。しかし伝統的な「百家姓」にはない。できれば「景」か「経」を選んだほうがよかったのではないか。

■「父司馬遷」:武帝の怒りを買い、宮刑に処されたことによって、司馬遷の妻は、親族の勧めるまま家を出て再婚する。息子たちも司馬の姓を捨てて生きることを選ぶ。唯一の肉親となった娘の「栄」は父に会い、生きること、記録を書き続けることを激しく請う。これもいい話だった。特に栄の幼い記憶に残っている「優雅に駆けていた馬が、バタリと倒れて死ぬ瞬間」というイメージが、よく効いている(最後に払拭される)。

 司馬遷の家族については典拠があるのだったかしら(父の司馬談や、一族の祖先は除き)。この作品でも、司馬遷の娘の「栄」という名前が気になった。はじめ、私は、葛飾北斎の娘で画家になった栄(お栄、応為)から取ったのかな?と勘ぐった。しかし、作品中で司馬遷が、娘に名前の由来を語るところがある。斉の国に、ある刺客がいた。仕事を成し遂げ、凄絶な死を遂げたあと、その姉が弟の亡骸を書き抱いて「士は己を知る者のために死す」と泣き、自らも命を絶った。この姉の名前を栄という。

 この逸話はかすかに覚えがある、と思って調べたら、聶政の姉の聶栄という女性のことらしい。だが「士は己を知る者のために死す」は予譲(豫譲)の言として知られている(どちらも「史記・刺客列伝」に載る)。意識的に混淆したのかしら。久しぶりに『史記』を読みたくなった。
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すべては命と健康のために/過労自殺(川人博)

2014-08-07 23:31:41 | 読んだもの(書籍)
○川人博『過労自殺』(岩波新書) 岩波書店 2014.7 第二版

 ブログの中では趣味に徹しているが、私は現実世界では、けっこう多人数の厚生労務管理に責任を負う立場にある。それで、つらつら自分の職場の状況などを思い合わせながら、本書を読んでみた。

 第1章には、著者が直接かかわった裁判等をもとに8つの事例が報告されている。うち6例は、今日、特に深刻とされている青年労働者(20~30代)の例である。第2章は、統計や各種の文献をもとに、日本の過労労働の原因・背景・歴史を分析する。大正時代、諏訪湖畔の製糸工場では、女工たちの疾病・精神疾患の発生や自殺が頻発し、「湖水に飛び込む工女の亡骸で諏訪湖が浅くなった」と言われた時期もあるそうだ。諏訪湖って、そんな怖いところだったのか…。第3章は労災補償に関するQ&Aで、ここだけ独立して読むこともできる。最後に、第4章は、過労自殺をなくすための著者からの提言。

 本書は、1998年に出版された初版の改訂版である。1998年は、日本の自殺者数が初めて3万人を超えた年だ。長時間労働が引き起こす「過労死」が問題化したのもこの頃だったように思う。30代後半だった私も、人生でいちばん長時間労働に巻き込まれていた時期だ。1日12時間で終わればマシなほうとか、土日も出勤しないと仕事が片付かないので、20日間以上休みなしとか、まあそんな感じ。しかし「過労死」というのは、40~50代の、正直、少しガタが来始めた人たちの災厄だと思っていた。まだ当時の20~30代には、不満を言いながらも、自分たちが「生産性の低い40~50代に代わって、しょうがないから働いてやっている」「会社(組織)を支えてやっている」という自負(言い訳みたいなものだが)を持つことが許されていたように思う。

 それが、第1章の事例(第二版で全て書き換えられた)を読むと、今日の資本主義(市場主義)の激烈さと、抗するすべを持たない若年労働者のいのちの弱さが身に迫ってくる。20世紀初頭、富国強兵と殖産興業政策の影で多発していた製糸工場の女工たちの過労自殺は、決して他人事ではない。著者は「強暴な資本主義への逆戻り」という表現を使っている。私たちの世代は、まず「我々だって長時間労働に耐えてきたんだから、お前も頑張れ」的な物言いを絶対に慎むことから始めなければならない。

 それにしても、なぜ彼ら若年労働者はこんなに弱くて、こんなに無抵抗なんだろう。箱に詰められたウサギみたいではないか。38日間連続勤務とか、33時間連続勤務とか、2年半で休日が27日とか、数字以上に、とにかく非人間的な扱いを受けていても「自分がふがいない」「迷惑かけてすみません」と言い残して、命を絶っていく。

 過労自殺の前段階に「うつ病」がある。従来、うつ病は、性格類型としてメランコリー親和型の人がなりやすいと言われてきた。その特徴は、責任感が強く、几帳面で勤勉で、権威や序列を尊重し、道徳心が強い傾向が挙げられる。告白しておくと、私はむかし、自分にはこれらの特徴があてはまると思っていた。しかし、久しぶりに読んだら、全然あてはまる気がしないので、苦笑してしまった。いやー私、几帳面でも勤勉でもないし、権威や序列を尊重しないし、道徳心も強くないな…。こういう割り切りができるようになると、社会の荒波に揉まれても生き残れるのである。

 より問題なのは、第2章に引用されている精神科医・加藤敏氏の分析だ。現代では、多くの職場が、就労者の間違いを許さない完全主義を徹底し、加えて「消費者、利用者、お客さんに不都合・落ち度がないよう細やかな配慮を徹底する他者配慮性を前面に出している」。つまり「職場のメランコリー親和型化」である。ただし、職場の他者配慮性は、心から共感的に相手を思いやるのではなく「企業競争を勝ち抜くための意図的戦略の色彩が強い」。したがって、厳密には「職場の偽性メランコリー親和型化」と呼ぶべきだろう、という。

 この「職場の偽性メランコリー親和型化」(すべてはお客様のために)は本当に曲者で、社会的経験が少ないと、なかなか抵抗しにくいと思う。しかし、著者が第4章で述べているように、すべてを労働者の「がんばり」に期待する職場は間違いである。たとえ義理を欠いても、迷惑をかけても、「人間のいのちと健康」こそ守られるべきものなのだ。この点、私は著者に全面的に同意する。

 そして、使用者は労働者に対し、労働者が生命、身体等の安全を確保しつつ労働できるよう配慮する義務があることを肝に銘じよう(疲労や心理的な負荷が蓄積して、労働者の心身の健康を損なわないような配慮を含む)。そもそも、こういう労働法の精神を教えないで、かたちだけの管理職育成やリーダーシップ論がまかり通っている状況がおかしいのだけど。

 追記。先日、報じられた理研の笹井芳樹氏の自殺も、統計においては「勤務問題」による自殺の1例として数えられるのだろうな。原因のサブカテゴリーは「仕事の失敗」なんだろうか、とぼんやり考えた。
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記憶の夕暮れ/ちいさな城下町(安西水丸)

2014-08-05 21:43:04 | 読んだもの(書籍)
○安西水丸『ちいさな城下町』 文藝春秋 2014.6

 安西さんは、2014年3月19日に亡くなられた。訃報に接したとき、71歳という年齢に少し驚いた。考えてみれば、私が学生だった80年代から活躍されていた方だから、そのくらいのお年になっていて何もおかしくない。しかし、いつも若々しくみずみずしい作品の印象があって、ご本人の年齢を考えたことがなかった。それと、最近の仕事として、城下町を訪ね歩くエッセイを雑誌に連載していた、みたいな紹介が気になった。おしゃれで軽やかで、都市型モダンの行き着く先みたいな安西さんの画風と「城下町」という古風なキーワードが、うまく結びつかなかったのだ。

 なので、本書を見つけたときは、すぐ買ってしまった。本書には安西さんおすすめの20の城下町が紹介されている。このチョイスが渋い。冒頭に「ぼくの好みは十万石以下あたりにある。そのくらいの城下町が、一番それらしい雰囲気を今も残している」という。私が行ったことがあるのは、村上市(新潟。ただしずいぶん前)、岸和田市(大阪)、中津市(大分)、新宮市(和歌山)、西尾市(愛知)、木更津市(千葉)くらいか。しかし、岸和田市や木更津市は「城下町」と思って訪ねたわけではない。だいたい、城下町を訪ねて(しかも十万石以下で)ここは「○万石」という認識をはっきり持っているというのが、私から見ると、かなりアヤシイ。いや、尊敬する。

 本書が1つの城下町に費やしているのは、安西さんの挿し絵を入れて、だいたい11~12ページ。特徴的なことは、多くの章で、安西さんとその城下町を結びつけた人物の遠い記憶が語られていること。たとえば、高校生の頃に通ったボクシングジムの先輩と、のちに福岡で再会して、一緒に仕事をすることになる。その先輩に「お前の好きそうな町があるから」と連れていかれたのが秋月(朝倉市)だったり。中学の友人「かっちゃん」とつまらないことで大喧嘩し、再び以前の仲に戻ったあと、別れ際にかっちゃんが「ろうばいを見に行こう」と言い出す。そのろうばい(蝋梅)で有名な安中に行ってみる話。ニューヨークのリバーサイドパークで、いつも将棋の相手をしてくれた若い中国人女性のレイを思い出しながら、将棋の駒の産地・天童に行く話など。ネタバレはこれくらいにしておくけれど、どれも短編小説みたいに鮮やかな書き出しだ。

 あとに述べるように、本書は土地の歴史も非常に懇切丁寧に扱っているけれど、それと交錯する著者の個人史が、なんとも味わい深い。長生きしただけで書ける文章ではないけれど、少なくとも、ゆっくり長く生きて、さまざまな出会いの記憶を大切にし、人生の夕暮れを迎えなければ書けない文章だな、と感じた。

 目的地に着くと、観光案内所で地図を手に入れ、タクシーで名所をまわる。風景が気に入れば公園のベンチでぼんやり過ごし、温泉に泊まっていくこともある。こういう「ゆるい」日程の旅、理想だなあ。実際は編集者が同行しているのかもしれないが、文中にその気配はなくて、老年のひとり旅っぽい。

 さて、本書のもうひとつの読みどころは、城下町の歴史的背景の記述が、かなり詳しいことだ。これも冒頭の一編(村上市)で、城下町ファンは、その町の歴史に興味をもつ人と、そんなことはどうでもよく、何か美味しいものや、武家屋敷の風情があればそれでいいという人に分かれるが、「ぼくは歴史派の方なので、ちょっと村上市の歴史に触れてみたいと思う」と軽く宣言している。

 そうか、安西さんは歴史派なのか、と思って読み進むと「ちょっと」どころではない。平安の頃、中御門家の荘園があったことの関係から「本荘」という地名が起こり、「本庄」氏に改名し、本庄房長が村上山に築城したのが始まりで、越後において春日山城下につぐ軍事都市として発展する。云々。執筆のために慌てて調べたというふうではなく、全て頭に入っている書きぶりなので、非常に分かりやすい。自分はここを誤解していた(村上の初代藩主は信濃の勇将・村上義清だと思っていた)ということも包み隠さず書いている。

 好きな歴史上の人物にゆかりの地では、かなり饒舌になる。しかし「脇役好み」、しかも二番目、三番目でなく四番目あたりが気になるという好みなので、私などは、知らない人物ばかり。丹羽長秀とか脇坂安治とか朽木元綱とか。まあ調べてみると戦国時代好きには常識的な名前かもしれないが、私はこの時代、弱いのである。幕末では、水野忠央、林忠崇とか。本書が、関心を持った読者のために、関連書や小説を挙げてくれているのはとてもありがたい。

 歴史上の人物を評して上手いなあと思ったのは、なんといっても真田氏について「コンプレックスと誇りのカオスから生まれた欲望やしぶとさこそ真田家の本来の血のようにおもえてならない」という箇所。安西さん、テレビ好きらしく、中津市の章では、2014年の大河ドラマの主人公は黒田官兵衛と聞いて、少し驚いている。ドラマをご覧になる機会はあっただろうか。そして、2016年に予定されている真田一族のドラマも見せてあげたかったな、と思った。

 あ、岩瀬文庫のある西尾市(愛知)に、源氏の宝剣「髭切」が収められたことに由来する 御剣八幡宮というのがあることを初めて知った。機会があったら訪ねてみたい。
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殿様と木彫りの熊/徳川美術館展(北海道立近代美術館)

2014-08-03 20:00:06 | 行ったもの(美術館・見仏)
北海道立近代美術館『徳川美術館展:尾張徳川家の至宝』(2014年7月5日~8月24日)

 レポートが遅れてしまったが、先週末、冷たい小雨の中を行ってきた。公道に面した美術館の門には目立たない小さな看板が掲げられているだけだったので、場所を間違えたかとまごついてしまった。建物の正面には「徳川美術館展」と「札幌国際芸術祭2014」のチケットブースが設置されている。まあねえ、少なくとも宣伝は、後者のほうが頑張っているよなあ、と思った。

 しかし、徳川美術館展の会場内に入ってみると、思いのほか、人が多い。国宝『源氏物語絵巻』の出品期間(7/5-7/21「竹河(一)」、8/5-8/17「東屋(一)」)をわざとはずしてきたので、もっと空いていると予想していたのだ。しかも辛抱強く列に並んで、展示物をいちばん前で見ようとする人が多いことに驚き、感心した。

 第1章「尚武」の冒頭には、よく見る権現様スタイルの家康の肖像画と尾張藩初代藩主の徳川義直の肖像画。品のよい銀箔置白糸威具足。この具足には見覚えがあった。どうやら、基本的には2013年に江戸東京博物館で行われた『尾張徳川家の至宝』展を縮小して持ってきたようで、売られている図録も同一。最初は、刀、弓、火縄銃など(たぶん現地で)見たことのある武具の類が続く。小さな男の子が、刀!よろい!と興奮していたが、展示室&展示ケースが小さいので、いまいち迫力が伝わらないのが残念。

 第2章「清雅」は、茶道具、能面・能装束など。ああ~備前の水指、伊賀の花生、井戸茶碗に織部に油滴天目(星建盞)まで、自分が北海道にいることをしばし忘れる。やっぱり、こういう名品を見たいときに(有料でも)見られる地域で暮らしたい…としみじみ。香木・香道具は、江戸博のときほどではないが、しっかり出ていた。

 第3章「教養」には、書画の特集展示室があって、私はここにずっといたいと思った。伏見天皇の宸筆を貼り込んだ『広沢切貼込屏風』ってなんという贅沢! 「寛永の三筆」近衛信尹の『朗詠屏風』もよかった。六扇に和漢朗詠集を書いているのだが、扇によって、和歌と漢詩を横に並べたり、縦に分けたり、市松状に組み込んだり、さらに大字・小字、楷・行・草と変化を持たせているのが面白い。重文の『斎宮女御集』(鎌倉時代・13世紀)が見られたのは眼福。書跡も料紙も美しかった。

 土佐光起筆『厳島・松島図屏風』(17世紀)は、厳島図が展示されていたが、社殿も鳥居も白木で、赤くない!というのが驚きだった。雲に隠れた本殿の斎垣だけが朱塗だった。どのくらい実景を伝えているのだろうか。

 順路に添って流れていくと、最後に『木彫り熊のルーツはここにあった!』というおまけの併設展示にたどり着く。なんでも尾張徳川家第19代目の徳川義親公は、毎年八雲に熊狩りに来ていて、冬季の副業として木彫り熊の生産を奨励したのだそうだ。発想の元になったのは、スイスで見た民芸品の木彫り熊だという。ベルンの熊か! 私は木彫りでなくてぬいぐるみの熊を買ってきたなあ、そう言えば。北海道の木彫り熊といえば「鮭を咥えた熊」しか知らなかったが、八雲町には、さまざまなタイプの熊があって面白かった。

 さらに書き留めておくと、尾張徳川家第17代目の徳川慶勝公は、廃藩置県によって禄を失い困窮した旧藩士を、現在の八雲町に移住させ、開墾に従事させた経緯がある。このこと、子孫の人々には今でも意識されているのかなあ。興味深い。
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