〇金誠『孫基禎(ソンギジョン)-帝国日本の朝鮮人メダリスト』(中公新書) 中央公論新社 2020.7
1936年のベルリン五輪マラソンで金メダルをとった孫基禎(1912-2002)の評伝である。孫基禎は、1912年、鴨緑江に面した国境の町・新義州に生まれた。この前年、大日本帝国による大韓帝国併合が行われた。そして1912年という年は、日本が初めてオリンピックに参加した年でもある。と聞いても、以前なら何の感慨も湧かなかったと思うが、昨年の大河ドラマ『いだてん』を、ポツポツ見ていたので、三島弥彦と金栗四三の名前に出会って懐かしさを感じた。
貧しさに耐えながら学校に通い、次第に陸上競技で注目されるようになる。19歳で養正高等普通学校に入学し、名門陸上部で技術を高めるが、ロサンゼルス五輪の日本代表選考会では成績が振るわなかった。1936年、ベルリン五輪に出場した孫は、オリンピック新記録で優勝する。金栗四三から24年目の金メダルだった。三位にも朝鮮人選手の南昇龍が入った。多くの日本人が「日本の勝利」「日本の英雄」に熱狂したことを、本書は当時の新聞記事や記事の見出しから検証している。そこに民族的差別は全くない。それは、孫がオリンピックに優勝したからである。マージナルな存在でも、偉大な功績があれば「日本人」の仲間と見なされることは、現在のスポーツ選手を見ていてもよく分かる。
もちろん朝鮮の人々も熱狂したが、そこにはスポーツの勝利の喜びだけでなく、朝鮮民族の自信と優秀性を見ようとする気持ちがあった。そして『東亜日報』が孫基禎の写真を掲載する際、ユニフォームの日章旗を抹消する事件が起きる。東亜日報の社員らは朝鮮の人々の期待に応えたのだが、「内鮮融和」の方針に反するものとして停刊処分を受ける。自らの意図とは無関係に「要注意人物」扱いとなった孫基禎は、監視にさらされる朝鮮での生活を捨て、「再び陸上をやらない」ことを条件に日本の明治大学へ留学する。
「再び陸上をやらない」と言っても、日本に押し付けられる役割があって、1938年には「国民精神作興体育大会」(伊勢神宮に奉納した六本の聖矛を各地の神社に奉納しながらリレー方式で明治神宮まで走る)に出場している。1940年に朝鮮に戻ると、朝鮮スポーツ界の指導者の一人として、体育振興、体育向上を唱え、さらに学徒志願兵の勧誘にも協力する。
1945年、植民地支配からの解放。しかし朝鮮知識人は、この解放が自主独立ではなく日本を屈服させたアメリカの力によるもので、しかもソ連とアメリカによる朝鮮の分断管理が決定されたことに挫折と憂鬱を味わっていた。そうか、単純に解放されて嬉しかっただろうというくらいで、この「挫折と憂鬱」はあまり考えたことがなかった。
国家に翻弄される孫基禎の運命は変わらない。李承晩は、スポーツ選手が「韓国」ナショナリズムの高揚と反共スローガンに利用できることをよく分かっていた。1964年の東京五輪を前にして、孫は日本の産経新聞に「マラソンは日本が勝て!」と語ったことが問題視される。孫は日本を含むアジアの国の優勝を期待しているという意図だったという。1970年には、韓国の国会議員がベルリンのオリンピックスタジアムの壁に刻まれた孫基禎の国籍「JAPAN」を勝手に「KOREA」に差し替える事件が起きた。どこの国にも厄介な国会議員はいるものだ。1988年のソウル五輪で、孫は聖火リレーの最終走者に予定されていたが、事前に情報が洩れてしまったため、交代を余儀なくされる。
とにかく当人の意志とは無関係に「英雄」を欲しがる人々(権力者も大衆も)の間で翻弄され続けた生涯だったように思う。死後は、国家に殉じた者の墓所・大田の国立墓地に眠るというが、果たして孫の望んだことだったか。それとも、墓所などどこでもいいと思っているだろうか。孫が、李承晩の参列した席で語った言葉「最後にお願いですが、選手たちに英雄心を与えず、選手たちを商品化せず、選手たちを政治道具化しないことを強く願います」には、胸を打たれた。それでも大衆は「スポーツの英雄」を求めてやまないし、権力者と資本家は、その欲望を利用しようと手ぐすねひいている。だからオリンピックは難しいのだ。