今日3月24日は、寿永4年、壇ノ浦の戦いで平家一門が敗れた日である(ユリウス暦では1185年4月25日)。そのことを意識しながら、3月20日の春分の日、逗子に行ってきた。久しぶりに平家の嫡流・六代(平清盛→重盛→維盛の嫡男)の墓に詣でたくなったためである。
私は10年ほど前、一時期、JR逗子駅近くに住んでいたことがあり、何度か六代御前の墓に詣でたこともあるので、場所はよく覚えていた。当時はもっと人気のない寂しい場所だったように思うが、今はすぐそばまで住宅地が迫っていた。
こんな厳めしい柵なんてあったかしら。
丘の下には、平成21年に逗子市教育委員会が立てた金属製の案内板がある。昭和36年に立った木製の案内板も現役で、全く文字が掠れていない。文章は文語体で格調高い。さらに駐車場の入口には「六代御前最後之故址」と記した大きな石碑があり、裏側に昭和29年「六代御前法要謹修の趣旨」が刻まれている。これも文語体。読み比べてみると、けっこう面白い。
さて、逗子から小坪海岸を経て、鎌倉まで歩く。何度も歩いたことのあるコースだ。途中にある「六角の井」は、伊豆大島に流された源為朝が、光明寺裏山の天照山をめがけて遠矢を放つと、十八里の洋上を飛び越えて、六角の井の中に落ちたという伝承を持つ。案内板に「やじりは、今も竹筒に封じて井戸の中段にまつってあります」と書いてあったが、中は暗くてよく見えなかった。ちょうど通りがかったおばさんたちが「あたしが子供の頃は、こんな覆いなんてなかったわねえ」と話していた。そうなのか。
光明寺を経て、材木座の来迎寺へ。このお寺には、ミモザの大木があって、ちょうどこのくらいの時期に見事な花をつけていたのが、来てみたら、なくなっていた。調べたら、2010年12月の大風で枝が折れてしまったのだという。残念だなあ…。
もうひとつ好きだったのは、本堂の裏にある三浦大介義明家来衆の墓。以前は、もうちょっと野趣に富んだ風景だったような気がするのだが、こんなに整備されていたかしら。
よく知っているつもりの散歩道でも、久しぶりに歩くと、風景の変化に驚かされる。
このあと、鎌倉駅で地元住人の友人と落ち合って、夕食。
私は10年ほど前、一時期、JR逗子駅近くに住んでいたことがあり、何度か六代御前の墓に詣でたこともあるので、場所はよく覚えていた。当時はもっと人気のない寂しい場所だったように思うが、今はすぐそばまで住宅地が迫っていた。
こんな厳めしい柵なんてあったかしら。
丘の下には、平成21年に逗子市教育委員会が立てた金属製の案内板がある。昭和36年に立った木製の案内板も現役で、全く文字が掠れていない。文章は文語体で格調高い。さらに駐車場の入口には「六代御前最後之故址」と記した大きな石碑があり、裏側に昭和29年「六代御前法要謹修の趣旨」が刻まれている。これも文語体。読み比べてみると、けっこう面白い。
さて、逗子から小坪海岸を経て、鎌倉まで歩く。何度も歩いたことのあるコースだ。途中にある「六角の井」は、伊豆大島に流された源為朝が、光明寺裏山の天照山をめがけて遠矢を放つと、十八里の洋上を飛び越えて、六角の井の中に落ちたという伝承を持つ。案内板に「やじりは、今も竹筒に封じて井戸の中段にまつってあります」と書いてあったが、中は暗くてよく見えなかった。ちょうど通りがかったおばさんたちが「あたしが子供の頃は、こんな覆いなんてなかったわねえ」と話していた。そうなのか。
光明寺を経て、材木座の来迎寺へ。このお寺には、ミモザの大木があって、ちょうどこのくらいの時期に見事な花をつけていたのが、来てみたら、なくなっていた。調べたら、2010年12月の大風で枝が折れてしまったのだという。残念だなあ…。
もうひとつ好きだったのは、本堂の裏にある三浦大介義明家来衆の墓。以前は、もうちょっと野趣に富んだ風景だったような気がするのだが、こんなに整備されていたかしら。
よく知っているつもりの散歩道でも、久しぶりに歩くと、風景の変化に驚かされる。
このあと、鎌倉駅で地元住人の友人と落ち合って、夕食。