見もの・読みもの日記

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日本語で大陸を書く/延安(リービ英雄)

2008-09-29 00:07:20 | 読んだもの(書籍)
○リービ英雄『延安:革命聖地への旅』 岩波書店 2008.8

 私が著者の名前を知ったのは、たぶん90年代。日本語を母語とせずに日本語で創作活動を続ける不思議な作家として覚えた。90年代の終わりに、姜尚中氏との対談を聞きに行ったことがある。どこから見ても西洋人の風貌の筆者は、流暢な日本語の間に、ときどき短い中国語を挟みながら、最近はむしろ中国に惹かれていると話していたのを覚えている。

 2004年に『我的中国』と題された1冊が出た。「一千年前、中国人になったユダヤ人」の痕跡を求めて古都開封に赴く、私小説的中国紀行である。いわば、「越境」とか「マルチカルチュラル」とか、論壇で、あるいは大学の研究室で、カッコよく発せられる言葉の実態を、土の匂いのする陰鬱な路地裏に探しに行く物語。読んだのは、このブログを始める直前だったと思う。いつまでも続く眩暈のような読後感を書き残しておけなかったことが悔やまれる。

 そして、この夏、久しぶりに、中国に題材を取ったリービさんの新作『仮の水』と『延安』が出た。本書『延安』は、2006~07年に雑誌『世界』に連載されたもの。紀行エッセイ?ノンフィクション? いや、私は近代日本文学の伝統にのっとって、私小説(心境小説)と呼ぶのがふさわしいような気がする。

 延安は、現代中国にとって特別な土地(革命の聖地)である。けれども特別な土地の記憶は、却って、中国のどこにでもある光景を浮かび上がらせているように思う。紅色旅游ツアーに興じる都市の富裕層。千年前と同じように洞窟の家に住む農民。大都市の街頭で歌を披露する芸人夫婦。日雇いの職を求めて集まる男たち。結局、革命の意味とは何だったのか。著者は、意味に固執するでもなく、性急に否定するでもない。「死」の砂漠へと連なる、淋しく、貧しく、静かな黄土高原の只中に佇んで考え続ける。「(それは)いまだに解明されていない」と、夢の中で周恩来は囁く。たぶんこの「いまだに解明されていない」という状態に耐えられる人間だけが、中国という不思議な歴史の魅力にハマるのだと思う。

 本書の日本語は美しい。著者は、海から遠く離れた、過酷な風土を書くことは「ぼくにとって、日本語のチャレンジ」だったと語っている。確かに本書の日本語は、日本文学のあらゆる伝統から切り離され、孤立無援で、大陸の風景に必死で抗っている。その緊張感が、みずみずしい美しさを感じさせるのだと思う。また、日本語の間に挟まれる、著者が耳で聞いたままの中国語が効果的だ。ある外国語をネイティブのように習熟してしまったら、こういう紀行文は書けないだろう。異邦人にとって言葉とは、母語とは、外国語とは何であるかを考えさせられた。
コメント
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