「何が何でも長生きしたい」というほどの「長生き願望」でもないが、気に入った音で音楽を聴いてると、「こうして何の憂いもなく聴いていられるのも何時(いつ)までかなあ」なんて、つい気弱になってしまう今日この頃。
このところ体調がどうも思わしくない。
1ヶ月ほど前にオーディオ機器との奮闘で腰を痛め、ようやく治ったかと思うと今度は胃の調子がイマイチ。
原因はおそらく「飲酒」だろうと見当をつけている。それも「飲み過ぎ」という量によるものではなく、飲むタイミングがよくない。
日課である運動タイム、つまり運動ジムやウォーキングが済む時間が丁度16時ごろ。
それから夕食までのひとときをウィスキーや焼酎、日本酒(吉野杉の樽酒)などでチビリチビリやりながら音楽を聴くのが何よりの愉しみとなり、とうとう習慣化してしまった。
特に奈良県から取り寄せたこの樽酒〔写真)は最初の一口のときに杉の香りがプ~ンときて絶妙の口当たり。
もう何杯でもいけてしまうが空きっ腹にアルコールときては胃にとって堪ったものではあるまいと容易に想像がつきそうなものだが、そこは年甲斐もなく「マイ・フーリッシュ・ハート」。
「アルコールと音楽はきってもきれない仲」なんてうそぶきながらの習慣もとうとうキリキリと胃が痛むようになってあえなく中断。
ピタリと断って現在、5日ほど経過し、ようやく症状が治まってきた。
今年の3月頃も同じような愚を犯し、胃を悪くして病院に駆け込んでおり一体こういうことを何回繰り返せばいいのだろうかと、口(くち)卑しい自分がつくづくイヤになる。
折りしも、つい最近高校の同級生が病魔に倒れたがお知らせを見て「あんなに元気だったのに」としばし呆然。
つくづく明日の命に保証がないことを思いしらされたのも、冒頭の思いに連なってしまった。
まあ、自分の寿命がまるっきり分からないところに人生の妙があるのだろうが、日頃健康であることに越したことはない。
その健康法のひとつとして以前の朝日新聞の日曜版に「脈」についての特集が載ってた。
「元気の秘訣~適度なドキドキは長生きにつながる~」
自分の場合、誰に気兼ねすることもない趣味三昧の生活で「ハラハラドキドキ」とはまったく縁がない日常、たまにオーディオ機器の改造をして最初の音出しのときに「どんな音が出ることやら」と少しドキドキするぐらいが関の山。
しかし、実は以前はそうではなかった。
図太い神経のもとで鷹揚に構える大物タイプにはほど遠く、どちらかといえば神経質の緊張タイプなので長い宮仕えを通じて”ハラハラドキドキ”の機会にしょちゅう遭遇していた。
いかにも心臓に悪く、「これではとても長生き出来そうにないなあ~」というのが当時の正直な感想。
そう思うに至った根拠の一つが、以前に読んだ作家の玄侑宗久(僧侶:げんゆうそうきゅう)氏のエッセイ「僧侶が長生きする理由」。
同氏はその理由をいささか揶揄気味に4点ほど掲げてあって、そのうちの一つが「僧侶の大事な日課となっているお経、座禅などは呼吸数が非常に少なくて済むため長生きしている」というものだった。
これは中公新書「ゾウの時間 ネズミの時間」により「あらゆる動物は5億回の呼吸を終えると大体死んでしまう」との内容を踏まえたもの。
心拍数と呼吸数とではもちろんストレートに比較できないが一般的に心拍数が高まるとそれに応じて呼吸も浅くしかも早くなりがちなので相関関係があると思うのが当然だろう。
しかし、この朝日新聞の記事によると、むしろドキドキを肯定的に捉えていた。
「一日のうちに程よく心拍数がドキドキと変化する生活は、刺激がない生活よりもむしろ長生きに影響するらしいことが医学的にも分かっている。ほどよいドキドキを積み重ねていくにはどんなコツがあるのだろうか。」
とあって、結局、ありふれた「運動奨励論」に落ち着いている。
自分の場合、日常生活に運動は欠かしていないものの、むしろ精神的な意味合いで「仕事や人との関わりの中でのハラハラドキドキもたまには欲しいなあ」という気がする。
同世代の知人・友人がいまだに現役でバリバリ活躍しているのを見聞するとチョッピリうらやましい。
しかし、昔はあんなに青息吐息の状態でバラ色の定年後を夢見ていたのに完全に自由の身となった今では「奇妙に昔を懐かしがる」、何という身勝手な生き物なんだろうか~。