2月8日(火)のこと、ようやく15日間の「喪」(休館日)が明けて、勇躍「県立図書館」に行こうと身支度をしていたところ、「デコポン(みかん)を買いに行くので付き合ってくれない?」と、カミさんのご託宣。
お付き合いのある人たちに配りたいのだという。
断ろうものなら、たちまちご機嫌が悪くなって散々皮肉を浴びせられるのが落ちなので、「そんなことは前の日に言えよ」と内心舌打ちしながらもさりげなく「ああ、いいぞ~」(笑)。
行く先は一度行ったことがあるミカン農家で、クルマで片道50分ぐらいのところ。
この画像は配り終えた後の残りだが、普通のミカンに比べて形が少し変わっていて、頭の部分が「出べそ」みたいになっているが、糖度が高いのが特徴。
結局、図書館行きは午後になったが、コロナのせいで閑散とした館内の中を「新刊コーナー」に真っ先に駆け付けたところ「(新刊が)山のように入っているかもしれない」という期待は無残にも打ち砕かれた。
2週間前と変わり映えがしない本が陳列されていてガッカリ。
仕方がないので10冊の持ち株のうち4冊ほど借りた。新刊が3冊と司馬遼太郎さんのエッセイが1冊。
さて、本にちなんだ話になるが先日投稿したブログの中で「伊坂幸太郎さん」に触れていたところ、大ファンを自認される「I」さん(東海地方)から次のようなメールが届いた。
「伊坂幸太郎は純文学と大衆文学のクロスオーバー作家と言われているようですね。
そういう意味では「重力ピエロ」は純文学寄り、「アヒルと鴨のコインロッカーは」中間くらいかと思います。
それぞれ、作家の4作目と5作目に当たります。
純文学=解決しない・・解決できない・・作品は発表されたら読者のもの。だから、あなた考えてね。
大衆文学・特にミステリー=解決(説明)する・・作品に厳密さが求められる。読者とのゲーム。
の違いかなと思います。
この観点から、村上春樹は純文学ですね。海外では「春樹は提示しない(からノーベル賞に該当しない)」ともいわれているようですが、ボブ・ディランがもらえる賞なんて、要らないですよ。
伊坂幸太郎は30作品読みましたが、上記2作のほか、
16作目「ゴールデンスランバー」(大衆文学)は輝いていますね。私は涙しました。
一方、11作目の「週末のフール」(純文学寄り)はいまだに、わたしの喉に骨がひっかかっています。
大衆文学派の雄、7作目の「グラスホッパー」と続編たる21作目の「マリアビートル」 身近に感じる快作「陽気なギャング・・」シリーズ。
いろいろと楽しんでいます。
今は「ヨルガオ殺人事件・上」を読みだしたところです。海外ミステリー独特の「序」の部分をやっと通り抜けました(笑)
下巻の方は、予約者がゼロです。なんで?」
といった内容でした。ありがとうございました。
ノーベル賞のうち「文学賞」と「平和賞」に限っては「眉唾物」だと思ってますので同感です。
純文学と大衆文学の色分け論は興味深いですねえ。
「純文学」が解決しない、解決できないテーマを扱っているとしたら、「オーディオ」はまさに「純文学」に値すると思いますよ。
さらに、突き詰めるとクラシック向きの「優れた音」なら「芥川賞」を、ジャズ向きの「優れた音」なら「直木賞」を進呈すると言ったら叱られますかなあ(笑)。