「武満徹 音楽創造への旅」
音楽ってなんだろう? 音っていったいなんだろう?
こういう根源的な問いに対して、たった1冊の本にすっきりとした解答を求めるのは虫が良すぎると思うが、いろいろ考えさせてくれる内容であることは間違いない。
膨大な内容を一括りにするのは筆者の手に余るので、(武満氏の)音に対する考え方が一番如実に表れている箇所「海童道祖と“すき焼き”の音」(467頁)の箇所を引用しよう。
海童道祖(わたづみどうそ:1911~1992)は単なる尺八演奏家に留まらず宗教家にして哲学者だが、武満氏と小さな座敷で同席して名曲「虚空」を聴かせるシーンの叙述である。
「目の前にはスキヤキの鍋があってグツグツ煮えており、外はダンプカーなどがバンバンと走ってうるさいことこの上ない。
そういう環境のもとで、尺八の演奏を聴くうちに、僕はいい気持になってきて、音楽を聴いているのか、スキヤキの音を聴いているのかダンプカーの音を聴いているのか分からないような状態になってきた。
それらの雑音が一種の響きとして伝わってくると同時に尺八の音色が前よりもくっきりと自分の耳に入って来る。
演奏が終わって海童氏が“武満君、いま君はきっとスキヤキの鍋の音を聴いただろう”と言われたので“たしかにそうでした”と答えると、“君が聴いたそのスキヤキの音がわたしの音楽です”と言われる。
ぼくは仏教とか禅とかは苦手で禅問答的な言い方はあまり好きじゃないのですが、そのときは実感として納得しました。」
つまり、音楽の音の世界と自然音(ノイズ)の音の世界が一体となっている、そこに武満氏は音楽の特質を見出す。
海童同祖は次のように言う。
「法竹(修行用の尺八)とする竹にどんな節があろうが、なにがあろうがいっこうに差支えない。物干しざおでも構わない。
ほんとうの味わいというのは、こういうごく当たり前のものに味があるのです。
ちょうど、竹藪があって、そこの竹が腐って孔が開き、風が吹き抜けるというのに相等しい音、それは鳴ろうとも鳴らそうとも思わないで、鳴る音であって、それが自然の音です。」
さらに続く。
「宇宙空間には人間の考えた音階だけでなく、けだもの、鳥類、山川草木たちの音階があります。宇宙はありとあらゆるものを包含した一大響音体なのです。
どんなノイズも、クルマの音も、私たちが喋っている声も我々には同じ価値を持っている。それぞれに美しさがあります。いわゆる調律された音だけではない音たち、それから音のもっと内部の音、そういうものに関心があります。つまり音楽の最初に帰ろうとしているわけです。」
以上のことを頭の片隅におきながらときどきこのCDを聴く。
こういう音楽をいきなり聴くと、これまでの西洋の音楽、つまり「旋律・リズム・ハーモニー」にすっかり麻痺してしまった耳にとって違和感を覚えるのは当たり前だが、これから音楽への変換フィルターである「脳」をいかに柔軟にしていくか楽しみなことではある。
そして、こういう話から敷衍(ふえん)して言えば、オーディオシステムからどういう音が出ようと意味がないように思えてくるから不思議・・(笑)。
最後に本書の中で作曲家「武満 徹」氏が絶賛されていたのが「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K364」(モーツァルト)の「オーケストレーション」だった。
興味のある方は「ユーチューブ」で、ぜひ~。
モーツァルトにどっぷり浸かって早50年以上になるが、たしかにこれは完全無欠の構成を誇る名曲中の名曲ですよ。
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