先日のテレビで映画女優の「小雪」がインタヴューに答えていた。
別に好みのタイプでもないが、何とはなしに観ていたところ、「どんな男性に心を魅かれますか?」という問いに対して「人生を楽しんで生きてる人」と言ってた。
フ~ン、今さら「小雪」姐さんに気に入ってもらおうなんて夢にも思わないが、これは簡単そうで実はなかなか難しい。人生なんて自分の意に添わないことの連続劇みたいなもので常に不機嫌状態にあるのが当たり前。
そういう心境を超越して「人生を楽しんでいる、あるいは楽しそうに謳歌している」人を見るのは気持ちがいいし、傍から見ていてこちらまで何だか楽しくなる。
つい先日のブログでお節介にも「才能も知恵も努力も業績も身持ちも忠誠も、すべてを引っくるめたところで、ただ可愛気があるという奴には叶わない。~谷沢永一「人間通」(新潮選書)~」と紹介した。
「可愛気」とは、ひとつには「人生を楽しむ様子」から生まれて来るのかもしれないなんて思ったりした。
そういうわけで「つい近視眼的で神経質になりがちなオーディオの世界だが、おおらかな気持ちで楽しまねば」。
もちろん、これ、自戒の言葉。
さて、オーディオはいろいろ言ってみてもつまるところ「好きな音楽を好きな音で聴いて楽しむ趣味」。騒音などでご近所に迷惑をかけない限り、他人がとやかく言う筋合いのものではないが、それでも物事には万事、「正道」というものがある。
オーディオの場合では「正しい音」となる。
もちろん、「音に正しいも、へちまもあるもんかい」という方がいてもちっとも不思議ではないが「正しい音」と自分の「好きな音」との差を日頃から客観的に意識しておくことは結構有意義なことではないかと思うのである。
さて、「正しい音」とは感覚的には分かるが言葉として表現するとなるとなかなか難しい。浅学菲才の自分のボキャブラリーではとても手に負えないので専門家のご意見を借用させてもらおう。
「オーディオ テクネ」という会社がずっと以前、何かの雑誌に記載していたのを見て感心し、メモっていたのが手元にある。
題して「原音に近づく正しい音とは」。
1 ボリュームを上げてもうるさくない音で会話が楽にできる。
2 音は前には出ない。後方に広がり自然に消える。
3 音像は左右後方に定位し、左右フラットに定位しない。(奥行き感のこと)
4 小さな音でも明瞭度が下がらない。
5 スピーカーの近くでも離れても後方でも音質、音圧の変化をあまり感じない(音は波紋である)
6 音は思っている程、迫力、パワー感のあるものではない。
7 視聴上、歪(物理特性ではない)が小さくなると音像が下がり、音階、楽器の音色が正しくなる。
8 長時間聴いても疲れない。連室でも音が邪魔にならない。
そのまま鵜呑みにするのもどうかと思うが、これまでのオーディオ経験を通じて、いま読んでもひとつひとつ考えさせられることばかり。特に5の「音は波紋である」は思い当たる節がある。
いつぞやのブログに載せたように、2000人ほどを収容する大ホールで弾かれたストラディヴァリ(ヴァイオリンの名器)の小さな音が客席の奥まで伝わるのは音がきれいな形の波紋を描いているからで、直接音とホールの壁に当たって跳ね返った間接音とがうまく重なり合って遠くまで響いていくのに対し、ダメなヴァイオリンの音がなぜ伝わらないのかといえば波紋がいびつな形なので直接音と間接音とがうまく重なり合わず途中で打ち消しあっているからなのだと勝手に思うのだが、果たして真相はどうだろうか。
ただし、オーディオ愛好家が「正しい音」にアプローチするとき、これらの項目を順番に個別撃破とはいかないところがちょっとつらいところ。つまり8項目すべてが連動しあっているので完勝となるととても難しい。
もちろん、これは完璧を期した場合での話で、日本全国を見回しても、こういう完全無欠の音を出しておられる方は、部屋にも機器にも恵まれたおそらくほんの一握りの方だけだろう。
程度の差こそあれ、それぞれ個人ごとに一長一短の音で聴いているのは間違いなし。なにせ耳の形から聴覚、さらには脳の回路まで個人ごとに千差万別なので「好きな音」なんか違っていて当たり前。
かくいう自分も、その例にもれず完全無欠の音に程遠いながらもせめて日頃聴いている音に何がしかのプライオリティ(優先権)を設けて自己満足を図っているのがせいぜい。
しかし「正しい音」と「好きな音」の差が年々縮まっているといいのだが、逆に離れているかもしれず、あまり自信がないが、まあいっか~。