経営コンサルタント田上康朗の雑感帳

経営コンサルタント田上康朗が、気ままに本音で記す雑感帳です。書く日もあれば書かないときもあります。

おお怖い

2007年03月23日 | Weblog
見ること、一つとっても実は大変なことである。
目は前に二つだけしかついていませんから、前しか見えない。
それも180度、これが横の視野の限界。また視力には限界がありますから、その限界を超えた先は見えない。そう。見る、見えることには制約、限界といったものがある。見えていても見えないものがある。

今、私は、窓を瀬にて机に向かいキーを叩いていますが、後ろの窓は見えない。膝から下も見えない。かろうじて画面が見えるぐらいです。そう考えると見えるはずのものも、ほとんどと見えない。だから耳鼻、口などの役割と出番がある。近寄る(動く)ことで、見えなかった者も見える。玄関に誰か来ても見えませんが、ドアフォーンを手にして、それを通して耳が助けてくれる。台所は、ここから見えませんが、「ああ今日は、カレーか」と分かる。

すべて目でまかなえれば、他はいらない。自分で何でもやれれば人はいらない、組織も社会もいらない。

こう考えると、世の中のほとんどは、出来ないお陰で、他の人が必要になる。助け合いや社会や組織が必要になるように、出来ている、理解した方がわかりやすいのではないでしょうか。
 
目に限ったことではありませんが、目を例に取れば、360度全体を目だけで見ることをまかなおうとすれば、体中に目が必要になる。ちょっと気持ち悪いことになります。
 こう考えれば、足りないことや、限界を嘆くのは、まったく不合理なこと、おかしなこと。こうした世の中を、ありかたそのものを否定することになります。
 
逆です。こうした足りないように思えること。人間としての限界、自分の能力の足りなさが、飛行機を生んだ、望遠鏡を生んだ、車を生んだ、と考える。私は怠け者で、努力するのが嫌いですから、自分の能力不足、至らなさをこうした風に、言い訳することのほうを好みます。

 ところが、これが言いたいことですが、人の多くは完全を目指す。完璧さを目指す。これは、孤立、孤独に入り込むだけではなく、いわば神や仏に近づくことになる。
 年取ったら、「あなたずいぶんと丸くなったね」といわれます。あれ、怖いです。
刑事物でよくいいますね。亡くなられた人を、仏様と。おお、怖いですね。それは死を意味することになると思うからです。
さらに完全なる神仏から見たら、人が神仏に近づくことは、神仏からみたら、ライバルが増えることにもなる。神仏と争って勝てるわけはない。おお、こわ。
私は、いつまでも人の手を借りられる不完全燃焼人間でありたい。完全燃焼とは、灰になることですから。おお、怖わ。