8/5NNNドキュメント「ボーンマンの約束」より
もうすぐ8月9日で長崎に原爆が落とされた日です。ロンドンオリンピックに浮かれる中で、深夜にいい番組をやっていたので、記録しておきます。
太平洋戦争当時、ミューギニアに出征した西村幸吉さんは食糧も無く薬品や弾薬など物資の無い中敵と戦っていた。敵であるオーストラリア軍に追われ、敗走中のとき、もう歩けなくなった病兵や負傷兵約100名が戦地に残り、追ってくるオーストラリア軍と戦い、動ける戦友を逃がすために死んでいったとのこと。負傷兵たちは歩けないのに、担架に乗せられた負傷兵まで銃を持って戦い、10日間の激闘を行い戦友を逃がす時間を作り出した。
オーストラリア軍の記録にも、その戦いのことが残っており、負傷兵軍の戦闘ぶりは激しく、まさか負傷兵の軍だとは気付かず、また、決して投降しようとせず、発泡してくるので、病人も負傷兵も殺さざるを得なかったとあった。
このドキュメントの主人公西村さんはその戦闘のお陰で、日本に帰り、戦後会社を起こし、事業に成功されたようだ。しかし、西村さんは60歳のとき会社を退き、家族を離れて、たった一人ニューギニアに移住して26年間遺骨を収集する活動をされたそうです。
移住当初は、遺骨を勝手に掘ったり、遺骨を日本に持ち帰ることができなかったそうです。それでも、西村さんは、自分の家の隣に小学校を作って、地域の教育に力を貸したりして、ニューギニアの周りの人の信用を得るよう勤め、協力者があらわれるようになったそうです。
西村さんの家から、例の病気の戦友と分かれた場所そして激戦のあった場所でもあるギルワまで、西村さんが何度も往復するうちに、その道が「西村街道」と呼ばれるようになったとのこと。
26年間ニューギニアに住み、その後は毎年ときどき訪れながら遺骨や遺品の収集を行なわれ、約600体の遺骨を収集されたとのこと。
また届けられた遺骨を受け取った遺族を連れて戦闘の地ギルワを訪れていらっしゃった。「子どものときに出征した父が見た最後の風景が見てみたかった」という遺族の方も72歳。どんな風景が見えたのでしょう。
現在西村さんは92歳で電動車椅子に乗ってニューギニアの地で遺骨収集団の指揮を執っていらっしゃいました。西村さんは約70年前に行なった「必ず骨を拾って日本に届ける」という約束を果たすために、今年もニューギニアに行かれるとのこと。
ほとんど西村さんの物語は知られていなかったが、オーストラリアで西村さんのことをボーンマンと称して本が出版されヒットしているとのこと。オーストラリアの人が全ての人が読むべき本だと言うように、オーストラリアの高校で教材として授業で西村さんの物語を学習していました。
おそらく、今の文科省や教育委員会のレベルでは日本でボーンマンのことが高校の教材に上ることはないと思いますがせめて、マスコミでもっと取り上げられることを祈ります。
西村さんのように誰かのために頑張る老人たちをもっと紹介するマスコミ力が今日本に必要だと思います。
特に体験した人しか語りえない貴重な体験を持っている老人たちの記憶を地元史として文集のように活字か映像で残しておくといいと思います。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます