伊藤ファミリーBLOG

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【COGHCC聖書通読】 2019/12/22

2019-12-22 23:59:59 | 一日一章・聖書通読日記
ヨシュア記 5:1-3

ヨルダンの向こう側、すなわち西の方におるアモリびとの王たちと、海べにおるカナンびとの王たちとは皆、主がイスラエルの人々の前で、ヨルダンの水を干しからして、彼らを渡らせられたと聞いて、イスラエルの人々のゆえに、心は消え、彼らのうちに、もはや元気もなくなった。 その時、主はヨシュアに言われた、「火打石の小刀を造り、重ねてまたイスラエルの人々に割礼を行いなさい」。 そこでヨシュアは火打石の小刀を造り、陽皮の丘で、イスラエルの人々に割礼を行った。

全イスラエルがヨルダン川を渡ったとの情報を伝え聞いたアモリ人とカナン人の王たちは、主がヨルダン川の水をせき止めた奇跡の故に、すっかり戦意喪失してしまいました。このとき主は約束の地の先住民たちにすでに勝利されたのです。彼らがイスラエルを攻めてくる可能性を失わせたことにより、主はヨシュアにイスラエルの民に割礼を受けさせるようにと命じました。成人男性が割礼を受けたときの傷の痛みは、大の大人が3日間、全く身動きも取れないほどのもので、もしこの間に敵が攻めてきたならば、たちどころに滅ぼされてしまいます。主はイスラエルに割礼を受けさせるために、敵を激しい恐怖感に襲わせてイスラエルを守られたのです。

https://www.bible.com/bible/81/jos.5.1-3.ja1955

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ヨシュア記 5:4-7

ヨシュアが人々に割礼を行った理由はこうである。エジプトから出てきた民のうちの、すべての男子、すなわち、いくさびとたちは皆、エジプトを出た後、途中、荒野で死んだが、 その出てきた民は皆、割礼を受けた者であった。しかし、エジプトを出た後に、途中、荒野で生まれた民は、みな割礼を受けていなかった。 イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。 ヨシュアが割礼を行ったのは、この人々についで起されたその子どもたちであった。彼らは途中で割礼を受けていなかったので、無割礼の者であったからである。

敵地に入ったところで、あえて危険を冒して主がイスラエルに割礼を受けさせたのは、出エジプト第二世代の彼らは荒野を放浪することを余儀なくされたため、出生時に割礼を施すことができなかったからでした。しかし割礼は主が父祖アブラハムに命じた契約の民である証です。すなわち約束の地に入ってアブラハムの契約を受けるためには、割礼という神の民としての証印が必要だったのです。現代に生きる私たちも、神の祝福を受け継ぐには、主イエス・キリストの十字架の購いを信じ、神の民とされた証として、心に割礼を施されなければなりません。洗礼もまた神の民とされた証明の一つです。

https://www.bible.com/bible/81/jos.5.4-7.ja1955

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ヨシュア記 5:8-12

すべての民に割礼を行うことが終ったので、民は宿営のうちの自分の所にとどまって傷の直るのを待った。 その時、主はヨシュアに言われた、「きょう、わたしはエジプトのはずかしめを、あなたがたからころがし去った」。それでその所の名は、今日までギルガルと呼ばれている。 イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕暮、エリコの平野で過越の祭を行った。 そして過越の祭の翌日、その地の穀物、すなわち種入れぬパンおよびいり麦を、その日に食べたが、 その地の穀物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエルの人々は、もはやマナを獲なかった。その年はカナンの地の産物を食べた。

割礼を施されたイスラエルの民は、次いでその地で初めての過越の祭を行いました。神の民としてのアイデンティティーをその身に受けて確立し、過越の犠牲の血によって過去の罪をすべてきよめていただいてはじめて、自立した神の民として認められたのです。その翌日から、荒野を旅した40年間、天から神が与えてくださったマナは降り止みました。彼らは神の守りの中で養われる幼児のような存在から、もはや自分の手で神の祝福を勝ち取るべき成熟した個人と認められたのです。私たちもまた、いつまでもおんぶにだっこの状態のような神の守りに依存した生き方を改め、自らの信仰を確立して、成熟した信仰者とならなければなりません。

https://www.bible.com/bible/81/jos.5.8-12.ja1955

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ヨシュア記 5:13-15

ヨシュアがエリコの近くにいたとき、目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身のつるぎを手に持ち、こちらに向かって立っていたので、ヨシュアはその人のところへ行って言った、「あなたはわれわれを助けるのですか。それともわれわれの敵を助けるのですか」。 彼は言った、「いや、わたしは主の軍勢の将として今きたのだ」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何をしもべに告げようとされるのですか」。 すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足のくつを脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所である」。ヨシュアはそのようにした。

全イスラエルにヨルダン川を渡らせ、割礼を受けさせ、過越の祭を行い、神の民としてのアイデンティティーを確立させたヨシュアの前に、ひとりの神の御使が現れました。ヨシュアはこの霊的な存在を見たとき、自分たちを助けるために来られたのですか、それとも敵を助けるために来られたのですかと尋ねました。もはやマナは降りやみ、神が共にいるという約束の実体がなくなったとき、不安に思ったのでしょうか。しかし御使はただ、わたしは神の軍勢の将として来たと答え、ヨシュアの問いには直接的には答えませんでした。ヨシュアは更に、私に何を告げられるのですかと問いかけましたが、御使は、この地は聖なる場所だから足から靴を脱ぎなさいと答えました。このときの問答と似たことを、ヨシュアの前任の指導者であったモーセもまた経験しています。ミデアンの荒野でモーセが主と出会い、出エジプトの使命を託されたときも、足から靴を脱ぎなさいと命じられました。実はこの御使は、受肉前の主イエスご自身です。そして約束の地においても主が共にいてくださるという証を、ヨシュアに見せてくださったのです。私たちも時折、主の御姿が見えなくなるようなときがあります。しかし主はそのような不安のときに私たちに近付いてくださいます。そのために私たちが取るべき態度は、足から靴を脱ぎ、主の御前にいるのだという自覚です。

https://www.bible.com/bible/81/jos.5.13-15.ja1955
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【今日の聖句】 2019/12/22

2019-12-22 06:30:10 | 今日の聖句
ヨハネによる福音書 1:4-5 新共同訳

言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

言葉には魂が宿ると云いますが、神の言はいのちそのものであり、更に罪の暗闇を照らし出す義の光です。世のはじめから神と共におられ、天地万物を造り、いのちを授けた真理の言なる主イエスが、この世においでくださったクリスマスを心から喜び祝う私たちでありますように。

https://www.bible.com/bible/1819/jhn.1.4-5.新共同訳
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