申命記 32:1-9
「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。 わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。 わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ。 主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。 彼らは主にむかって悪を行い、そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、よこしまで、曲ったやからである。 愚かな知恵のない民よ、あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。 いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え、彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。 いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。 主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。」
モーセは神から託された預言の歌を、イスラエルの民に語り告げました。偉大な神の御名をほめたたえ、その神が取るに足らない民であるイスラエルを特別に選び出して祝福してくださった恵みを忘れることのないようにと訴えます。私たちは過ぎ去った日々の出来事を忘れやすい者ですが、神がどれほど私たちに良くしてくださったのか、神の恵みを忘れないように心掛けることが、真の救い、永遠の希望の入口です。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.1-9.ja1955
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申命記 32:10-18
「主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。 わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、 主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。 主は彼に地の高き所を乗り通らせ、田畑の産物を食わせ、岩の中から蜜を吸わせ、堅い岩から油を吸わせ、 牛の凝乳、羊の乳、小羊と雄羊の脂肪、バシャンの牛と雄やぎ、小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。 しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。 彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。 彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。 あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた。」
人は身に危険が迫ると、とっさに目を閉じて瞳を守ります。それは目から入る映像の情報が、人間の生存にとって最も重要な情報源となるからです。荒野でイスラエルの民を養い導いた愛と慈しみに富む神は、目の瞳のように自分たちを守ってくださったとほめたたえます。私たちは神が最も大切に守られる存在なのだという自覚を持つならば、どうして神を忘れ、その守りの手から迷い出てしまうのでしょう。しかし人は喉元過ぎれば熱さ忘れる愚かな存在、豊かになればなるほど恵みに感謝する心を失ってしまう、実に憐れむべき存在です。何事が起ころうとも、神のしてくださった恵みを忘れることなく、心から神に感謝しつつ、忠実に聞き従う私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.10-18.ja1955
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申命記 32:19-25
「主はこれを見、そのむすこ、娘を怒ってそれを捨てられた。 そして言われた、『わたしはわたしの顔を彼らに隠そう。わたしは彼らの終りがどうなるかを見よう。彼らはそむき、もとるやから、真実のない子らである。 彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。 わたしの怒りによって、火は燃えいで、陰府の深みにまで燃え行き、地とその産物とを焼きつくし、山々の基を燃やすであろう。 わたしは彼らの上に災を積みかさね、わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。 彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。 外にはつるぎ、内には恐れがあって、若き男も若き女も、乳のみ子も、しらがの人も滅びるであろう。」
神に守られ、豊かな祝福に与ったにもかかわらず、神を忘れ、感謝の心を失った者に、神の厳しい裁きを免れることはありません。神は神をも畏れぬ者さえも用いて、神の民イスラエルを懲らしめ、再び神の御前に立ち帰ることができるように、歴史をも導かれるまことの神です。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.19-25.ja1955
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申命記 32:26-35
「わたしはまさに言おうとした、「彼らを遠く散らし、彼らの事を人々が記憶しないようにしよう」。 しかし、わたしは敵が誇るのを恐れる。あだびとはまちがえて言うであろう、「われわれの手が勝ちをえたのだ。これはみな主がされたことではない」』。 彼らは思慮の欠けた民、そのうちには知識がない。 もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、その身の終りをわきまえたであろうに。 彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らをわたされなかったならば、どうして、ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができたであろう。 彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。 彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から出たもの、またゴモラの野から出たもの、そのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦い。 そのぶどう酒はへびの毒のよう、まむしの恐ろしい毒のようである。 これはわたしのもとにたくわえられ、わたしの倉に封じ込められているではないか。 彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう。彼らの災の日は近く、彼らの破滅は、すみやかに来るであろう。」
神を忘れ、ほしいままに振る舞うイスラエルを懲らしめるために、神をも畏れぬ民さえも用いられる神は、そのことによって異邦人が驕り高ぶり、神を否定し見えざる神の手を無にするようなことが起こるならば、速やかに悪しき者を退けその罪に報いられます。まことの神を知る私たちは、自分たちに敵対し悪を働く者の行く末を思い、神に特別に愛されている恵みを決して忘れてはなりません。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.26-35.ja1955
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申命記 32:36-43
「主はついにその民をさばき、そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、つながれた者もつながれない者も、もはやいなくなったのを、主が見られるからである。 そのとき主は言われるであろう、『彼らの神々はどこにいるか、彼らの頼みとした岩はどこにあるか。 彼らの犠牲のあぶらを食い、灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、あなたがたを守らせよ。 今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。 わたしは天にむかい手をあげて誓う、「わたしは永遠に生きる。 わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。 わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。 国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、その敵にあだを返し、その民の地の汚れを清められるからである」。
神の豊かな祝福に与りながら、神を忘れたイスラエルの民が再び神に立ち帰るとき、神は懲らしめのために用いられた民の罪を裁き、再び回復する恵みを受ける希望を抱いて生きるさいわいに感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.36-43.ja1955
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申命記 32:44-52
モーセとヌンの子ヨシュアは共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。 モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、 彼らに言った、「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。 この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。 この日、主はモーセに言われた、 「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。 あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。 これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。 それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない」。
神から託された預言の歌をイスラエルの民に語り聞かせたモーセに、いよいよその生涯を閉じるときがやってきました。神はモーセのいのちを取られる前に、神がイスラエルの民に約束された嗣業の地を、ネボ山の頂から遙かに見渡す恵みに与らせました。神の使命に生きた人は、幻を見ることができます。その幻は実現することのない空しいものではなく、神が必ず成就される現実です。モーセのように、たとい自分の存命中には実現しなくとも、神の見せてくださる幻を確信して喜びに満たされる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.44-52.ja1955
「天よ、耳を傾けよ、わたしは語る、地よ、わたしの口の言葉を聞け。 わたしの教は雨のように降りそそぎ、わたしの言葉は露のようにしたたるであろう。若草の上に降る小雨のように、青草の上にくだる夕立のように。 わたしは主の名をのべよう、われわれの神に栄光を帰せよ。 主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。 彼らは主にむかって悪を行い、そのきずのゆえに、もはや主の子らではなく、よこしまで、曲ったやからである。 愚かな知恵のない民よ、あなたがたはこのようにして主に報いるのか。主はあなたを生み、あなたを造り、あなたを堅く立てられたあなたの父ではないか。 いにしえの日を覚え、代々の年を思え。あなたの父に問え、彼はあなたに告げるであろう。長老たちに問え、彼らはあなたに語るであろう。 いと高き者は人の子らを分け、諸国民にその嗣業を与えられたとき、イスラエルの子らの数に照して、もろもろの民の境を定められた。 主の分はその民であって、ヤコブはその定められた嗣業である。」
モーセは神から託された預言の歌を、イスラエルの民に語り告げました。偉大な神の御名をほめたたえ、その神が取るに足らない民であるイスラエルを特別に選び出して祝福してくださった恵みを忘れることのないようにと訴えます。私たちは過ぎ去った日々の出来事を忘れやすい者ですが、神がどれほど私たちに良くしてくださったのか、神の恵みを忘れないように心掛けることが、真の救い、永遠の希望の入口です。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.1-9.ja1955
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申命記 32:10-18
「主はこれを荒野の地で見いだし、獣のほえる荒れ地で会い、これを巡り囲んでいたわり、目のひとみのように守られた。 わしがその巣のひなを呼び起し、その子の上に舞いかけり、その羽をひろげて彼らをのせ、そのつばさの上にこれを負うように、 主はただひとりで彼を導かれて、ほかの神々はあずからなかった。 主は彼に地の高き所を乗り通らせ、田畑の産物を食わせ、岩の中から蜜を吸わせ、堅い岩から油を吸わせ、 牛の凝乳、羊の乳、小羊と雄羊の脂肪、バシャンの牛と雄やぎ、小麦の良い物を食わせられた。またあなたはぶどうのしるのあわ立つ酒を飲んだ。 しかるにエシュルンは肥え太って、足でけった。あなたは肥え太って、つややかになり、自分を造った神を捨て、救の岩を侮った。 彼らはほかの神々に仕えて、主のねたみを起し、憎むべきおこないをもって主の怒りをひき起した。 彼らは神でもない悪霊に犠牲をささげた。それは彼らがかつて知らなかった神々、近ごろ出た新しい神々、先祖たちの恐れることもしなかった者である。 あなたは自分を生んだ岩を軽んじ、自分を造った神を忘れた。」
人は身に危険が迫ると、とっさに目を閉じて瞳を守ります。それは目から入る映像の情報が、人間の生存にとって最も重要な情報源となるからです。荒野でイスラエルの民を養い導いた愛と慈しみに富む神は、目の瞳のように自分たちを守ってくださったとほめたたえます。私たちは神が最も大切に守られる存在なのだという自覚を持つならば、どうして神を忘れ、その守りの手から迷い出てしまうのでしょう。しかし人は喉元過ぎれば熱さ忘れる愚かな存在、豊かになればなるほど恵みに感謝する心を失ってしまう、実に憐れむべき存在です。何事が起ころうとも、神のしてくださった恵みを忘れることなく、心から神に感謝しつつ、忠実に聞き従う私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.10-18.ja1955
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申命記 32:19-25
「主はこれを見、そのむすこ、娘を怒ってそれを捨てられた。 そして言われた、『わたしはわたしの顔を彼らに隠そう。わたしは彼らの終りがどうなるかを見よう。彼らはそむき、もとるやから、真実のない子らである。 彼らは神でもない者をもって、わたしにねたみを起させ、偶像をもって、わたしを怒らせた。それゆえ、わたしは民ともいえない者をもって、彼らにねたみを起させ、愚かな民をもって、彼らを怒らせるであろう。 わたしの怒りによって、火は燃えいで、陰府の深みにまで燃え行き、地とその産物とを焼きつくし、山々の基を燃やすであろう。 わたしは彼らの上に災を積みかさね、わたしの矢を彼らにむかって射つくすであろう。 彼らは飢えて、やせ衰え、熱病と悪い疫病によって滅びるであろう。わたしは彼らを獣の歯にかからせ、地に這うものの毒にあたらせるであろう。 外にはつるぎ、内には恐れがあって、若き男も若き女も、乳のみ子も、しらがの人も滅びるであろう。」
神に守られ、豊かな祝福に与ったにもかかわらず、神を忘れ、感謝の心を失った者に、神の厳しい裁きを免れることはありません。神は神をも畏れぬ者さえも用いて、神の民イスラエルを懲らしめ、再び神の御前に立ち帰ることができるように、歴史をも導かれるまことの神です。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.19-25.ja1955
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申命記 32:26-35
「わたしはまさに言おうとした、「彼らを遠く散らし、彼らの事を人々が記憶しないようにしよう」。 しかし、わたしは敵が誇るのを恐れる。あだびとはまちがえて言うであろう、「われわれの手が勝ちをえたのだ。これはみな主がされたことではない」』。 彼らは思慮の欠けた民、そのうちには知識がない。 もし、彼らに知恵があれば、これをさとり、その身の終りをわきまえたであろうに。 彼らの岩が彼らを売らず、主が彼らをわたされなかったならば、どうして、ひとりで千人を追い、ふたりで万人を敗ることができたであろう。 彼らの岩はわれらの岩に及ばない。われらの敵もこれを認めている。 彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から出たもの、またゴモラの野から出たもの、そのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦い。 そのぶどう酒はへびの毒のよう、まむしの恐ろしい毒のようである。 これはわたしのもとにたくわえられ、わたしの倉に封じ込められているではないか。 彼らの足がすべるとき、わたしはあだを返し、報いをするであろう。彼らの災の日は近く、彼らの破滅は、すみやかに来るであろう。」
神を忘れ、ほしいままに振る舞うイスラエルを懲らしめるために、神をも畏れぬ民さえも用いられる神は、そのことによって異邦人が驕り高ぶり、神を否定し見えざる神の手を無にするようなことが起こるならば、速やかに悪しき者を退けその罪に報いられます。まことの神を知る私たちは、自分たちに敵対し悪を働く者の行く末を思い、神に特別に愛されている恵みを決して忘れてはなりません。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.26-35.ja1955
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申命記 32:36-43
「主はついにその民をさばき、そのしもべらにあわれみを加えられるであろう。これは彼らの力がうせ去り、つながれた者もつながれない者も、もはやいなくなったのを、主が見られるからである。 そのとき主は言われるであろう、『彼らの神々はどこにいるか、彼らの頼みとした岩はどこにあるか。 彼らの犠牲のあぶらを食い、灌祭の酒を飲んだ者はどこにいるか。立ちあがってあなたがたを助けさせよ、あなたがたを守らせよ。 今見よ、わたしこそは彼である。わたしのほかに神はない。わたしは殺し、また生かし、傷つけ、またいやす。わたしの手から救い出しうるものはない。 わたしは天にむかい手をあげて誓う、「わたしは永遠に生きる。 わたしがきらめくつるぎをとぎ、手にさばきを握るとき、わたしは敵にあだを返し、わたしを憎む者に報復するであろう。 わたしの矢を血に酔わせ、わたしのつるぎに肉を食わせるであろう。殺された者と捕えられた者の血を飲ませ、敵の長髪の頭の肉を食わせるであろう」』。 国々の民よ、主の民のために喜び歌え。主はそのしもべの血のために報復し、その敵にあだを返し、その民の地の汚れを清められるからである」。
神の豊かな祝福に与りながら、神を忘れたイスラエルの民が再び神に立ち帰るとき、神は懲らしめのために用いられた民の罪を裁き、再び回復する恵みを受ける希望を抱いて生きるさいわいに感謝いたします。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.36-43.ja1955
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申命記 32:44-52
モーセとヌンの子ヨシュアは共に行って、この歌の言葉を、ことごとく民に読み聞かせた。 モーセはこの言葉を、ことごとくイスラエルのすべての人に告げ終って、 彼らに言った、「あなたがたはわたしが、きょう、あなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ、子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。 この言葉はあなたがたにとって、むなしい言葉ではない。これはあなたがたのいのちである。この言葉により、あなたがたはヨルダンを渡って行って取る地で、長く命を保つことができるであろう」。 この日、主はモーセに言われた、 「あなたはエリコに対するモアブの地にあるアバリム山すなわちネボ山に登り、わたしがイスラエルの人々に与えて獲させるカナンの地を見渡せ。 あなたは登って行くその山で死に、あなたの民に連なるであろう。あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に連なったようになるであろう。 これはあなたがたがチンの荒野にあるメリバテ・カデシの水のほとりで、イスラエルの人々のうちでわたしにそむき、イスラエルの人々のうちでわたしを聖なるものとして敬わなかったからである。 それであなたはわたしがイスラエルの人々に与える地を、目の前に見るであろう。しかし、その地に、はいることはできない」。
神から託された預言の歌をイスラエルの民に語り聞かせたモーセに、いよいよその生涯を閉じるときがやってきました。神はモーセのいのちを取られる前に、神がイスラエルの民に約束された嗣業の地を、ネボ山の頂から遙かに見渡す恵みに与らせました。神の使命に生きた人は、幻を見ることができます。その幻は実現することのない空しいものではなく、神が必ず成就される現実です。モーセのように、たとい自分の存命中には実現しなくとも、神の見せてくださる幻を確信して喜びに満たされる私たちでありますように。
https://www.bible.com/bible/81/deu.32.44-52.ja1955