申命記 27:1-8
モーセとイスラエルの長老たちとは民に命じて言った、「わたしが、きょう、あなたがたに命じるすべての戒めを守りなさい。 あなたがたがヨルダンを渡ってあなたの神、主が賜わる国にはいる時、あなたは大きな石数個を立てて、それにしっくいを塗り、 そしてあなたが渡って、あなたの先祖たちの神、主が約束されたようにあなたの神、主が賜わる地、すなわち乳と蜜の流れる地にはいる時、この律法のすべての言葉をその上に書きしるさなければならない。 すなわち、あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。 またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、 自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。 また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。 あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。
モーセは神から、あなたはヨルダン川を渡って約束の地には入れないと告げられていました。そこで約束の地に入って嗣業の地を得るにあたりまずしなければならないことを、イスラエルの長老たちと共に命じました。神の国でまずなされるべきことは、この国の基本となる教えは何かということを明確に打ち立てることです。それがイスラエルの中心にあたるエバル山に石碑を建てて、主がモーセを通して与えられた律法の言葉を書き記すことでした。そして律法の下に神を礼拝するための祭壇を天然の石で築き、主に燔祭を捧げ、酬恩祭の犠牲を捧げることを命じました。燔祭は全き献身、酬恩祭は感謝を表す捧げものです。これは私たちにとっても信仰生活の最も基本となる教えです。自分自身ではなく神の御言葉を中心に置き、己を神に捧げ、心からの感謝を神の御前に注ぎ出す人生にこそ、神の祝福が豊かに注がれます。
https://www.bible.com/bible/81/deu.27.1-8.ja1955
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申命記 27:9-10
またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。 それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。
モーセとレビ人の祭司はイスラエルのすべての民に、神の御前に静まることを命じました。ここに記された「静まる」というヘブル語「ハスケート」、英語では keep silent は、旧約聖書の中ではこの箇所にしか出てこない特別な用語だそうです。毎日の生活の中で、私たちはどれだけ神の御前に静まっているでしょうか。現代社会は様々な音に囲まれ、ともすると寝る直前まで無音の状態はありません。私たちの耳には塞ぐ器官がありませんので、周囲の音は、好むと好まざるとにかかわらず、すべて耳に入ってきます。神の御前に静まる時は、自らの意志を以て作り出さなければなりません。朝毎にデボーション、黙想の時を持つことの大切さが、ここに表されています。神の御前に静まって御言葉を黙想し、自らと対峙し、神との関係を正す、リセットする習慣が、神の民とされた私たちに最も必要なものです。
https://www.bible.com/bible/81/deu.27.9-10.ja1955
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申命記 27:11-26
その日またモーセは民に命じて言った、 「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。 また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。 『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。」
モーセはレビ人とイスラエルの民に、神の約束された地に入ったならば、イスラエル12部族の代表者が6部族ずつゲリジム山とエバル山に立ち、ゲリジム山からは祝福を、エバル山からは呪いを宣告して、その谷間に集まったイスラエルの民はすべてアーメンと唱えるように命じました。このモーセの命令は申命記11章29節で命じられており、ヨシュア記8章30節〜35節で実行されました。しかしこの箇所を読むと、エバル山から発せられた12の呪いの宣言だけで、祝福の宣言は一つも出てきません。これはエバル山の石碑に刻まれた律法の言葉からは、それを守り行わなかったときの呪いしか生み出さないことを示唆しています。モーセの律法は人に罪を指摘しますが、律法を守り行うだけでは真の祝福に与ることはできません。神の祝福は更に優れた律法、主イエス・キリストによる新しい契約の御言葉の中にこそ存在するのです。
https://www.bible.com/bible/81/deu.27.11-26.ja1955
モーセとイスラエルの長老たちとは民に命じて言った、「わたしが、きょう、あなたがたに命じるすべての戒めを守りなさい。 あなたがたがヨルダンを渡ってあなたの神、主が賜わる国にはいる時、あなたは大きな石数個を立てて、それにしっくいを塗り、 そしてあなたが渡って、あなたの先祖たちの神、主が約束されたようにあなたの神、主が賜わる地、すなわち乳と蜜の流れる地にはいる時、この律法のすべての言葉をその上に書きしるさなければならない。 すなわち、あなたがたが、ヨルダンを渡ったならば、わたしが、きょう、あなたがたに命じるそれらの石をエバル山に立て、それにしっくいを塗らなければならない。 またそこにあなたの神、主のために、祭壇、すなわち石の祭壇を築かなければならない。鉄の器を石に当てず、 自然のままの石であなたの神、主のために祭壇を築き、その上であなたの神、主に燔祭をささげなければならない。 また酬恩祭の犠牲をささげて、その所で食べ、あなたの神、主の前で喜び楽しまなければならない。 あなたはこの律法のすべての言葉をその石の上に明らかに書きしるさなければならない」。
モーセは神から、あなたはヨルダン川を渡って約束の地には入れないと告げられていました。そこで約束の地に入って嗣業の地を得るにあたりまずしなければならないことを、イスラエルの長老たちと共に命じました。神の国でまずなされるべきことは、この国の基本となる教えは何かということを明確に打ち立てることです。それがイスラエルの中心にあたるエバル山に石碑を建てて、主がモーセを通して与えられた律法の言葉を書き記すことでした。そして律法の下に神を礼拝するための祭壇を天然の石で築き、主に燔祭を捧げ、酬恩祭の犠牲を捧げることを命じました。燔祭は全き献身、酬恩祭は感謝を表す捧げものです。これは私たちにとっても信仰生活の最も基本となる教えです。自分自身ではなく神の御言葉を中心に置き、己を神に捧げ、心からの感謝を神の御前に注ぎ出す人生にこそ、神の祝福が豊かに注がれます。
https://www.bible.com/bible/81/deu.27.1-8.ja1955
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申命記 27:9-10
またモーセとレビびとたる祭司たちとは、イスラエルのすべての人々に言った、「イスラエルよ、静かに聞きなさい。あなたは、きょう、あなたの神、主の民となった。 それゆえ、あなたの神、主の声に聞き従い、わたしが、きょう、命じる戒めと定めとを行わなければならない」。
モーセとレビ人の祭司はイスラエルのすべての民に、神の御前に静まることを命じました。ここに記された「静まる」というヘブル語「ハスケート」、英語では keep silent は、旧約聖書の中ではこの箇所にしか出てこない特別な用語だそうです。毎日の生活の中で、私たちはどれだけ神の御前に静まっているでしょうか。現代社会は様々な音に囲まれ、ともすると寝る直前まで無音の状態はありません。私たちの耳には塞ぐ器官がありませんので、周囲の音は、好むと好まざるとにかかわらず、すべて耳に入ってきます。神の御前に静まる時は、自らの意志を以て作り出さなければなりません。朝毎にデボーション、黙想の時を持つことの大切さが、ここに表されています。神の御前に静まって御言葉を黙想し、自らと対峙し、神との関係を正す、リセットする習慣が、神の民とされた私たちに最も必要なものです。
https://www.bible.com/bible/81/deu.27.9-10.ja1955
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申命記 27:11-26
その日またモーセは民に命じて言った、 「あなたがたがヨルダンを渡った時、次の人たちはゲリジム山に立って民を祝福しなければならない。すなわちシメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ヨセフおよびベニヤミン。 また次の人たちはエバル山に立ってのろわなければならない。すなわちルベン、ガド、アセル、ゼブルン、ダンおよびナフタリ。 そしてレビびとは大声でイスラエルのすべての人々に告げて言わなければならない。 『工人の手の作である刻んだ像、または鋳た像は、主が憎まれるものであるから、それを造って、ひそかに安置する者はのろわれる』。民は、みな答えてアァメンと言わなければならない。 『父や母を軽んずる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『隣人との土地の境を移す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『盲人を道に迷わす者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『寄留の他国人や孤児、寡婦のさばきを曲げる者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『父の妻を犯す者は、父を恥ずかしめるのであるからのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『すべて獣を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『父の娘、または母の娘である自分の姉妹を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『妻の母を犯す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『ひそかに隣人を撃ち殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『まいないを取って罪なき者を殺す者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。 『この律法の言葉を守り行わない者はのろわれる』。民はみなアァメンと言わなければならない。」
モーセはレビ人とイスラエルの民に、神の約束された地に入ったならば、イスラエル12部族の代表者が6部族ずつゲリジム山とエバル山に立ち、ゲリジム山からは祝福を、エバル山からは呪いを宣告して、その谷間に集まったイスラエルの民はすべてアーメンと唱えるように命じました。このモーセの命令は申命記11章29節で命じられており、ヨシュア記8章30節〜35節で実行されました。しかしこの箇所を読むと、エバル山から発せられた12の呪いの宣言だけで、祝福の宣言は一つも出てきません。これはエバル山の石碑に刻まれた律法の言葉からは、それを守り行わなかったときの呪いしか生み出さないことを示唆しています。モーセの律法は人に罪を指摘しますが、律法を守り行うだけでは真の祝福に与ることはできません。神の祝福は更に優れた律法、主イエス・キリストによる新しい契約の御言葉の中にこそ存在するのです。
https://www.bible.com/bible/81/deu.27.11-26.ja1955