佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

大阪府内水面漁場管理委員会/その1

2009-06-25 11:36:26 | 釣り界の歴史
6月23日に寝屋川の水生生物センターにて内水面委員協議会が開かれました。

いつもは大阪府庁の元の知事官舎などを使って行われるのですが、今回は生物センターに行き、実際の淀川に住む魚をみての会議となりまして、バスでこの生物センターまで来ました。

建物の中に大小色々な水槽があり、淀川水域で見られる各種の魚が飼育されています。現在、日本で絶滅種に指定されている4種のうちの2種がこの淀川に生息しています。

この4種は天然記念物にも指定されています。そのうちのイタセンパラ・アユモドキは淀川に生息しています。後はネコギリ・ミヤコタナゴの2種です。

このイタセンパラという魚は二枚貝に卵を産み付けるという特殊な生態を持っていて産卵の際には必ず出水管から貝の体内に卵を産み込みます。一方、婚姻色に染まったオスは貝の周囲になわばりを張って、他のオスを追い払いながらメスの産卵を守ります。

メスが産卵すると、オスはすかさず貝の入水管付近で放精し、卵は貝の体内で受精します。受精後1週間で孵化し、仔魚は貝の中で約7ヶ月過ごして翌年4から5月に貝の出水管から泳ぎ出ます。

このようなイタセンパラの生息する淀川のワンドには多くの仲間がいるのですが、近年外来種の増加などで環境が大きく変化して在来種が減少しています。

淀川ワンドの魚としては、イチモンジタナゴ、ヤリタナゴ、シロヒレタビラ、カネヒラ、アユモドキ、スジシマドジョウ、コウライモロコ、ゼゼラ、モツゴツチフキ、ハス、ゲンゴロウブナ、コウライニゴイ、タイリクバラタナゴ、オオクチバス、ブルーギル等がいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

西区民・囲碁将棋麻雀大会

2009-06-23 17:32:54 | 趣味
日曜日、私の住んでいる大阪西区で西区民の囲碁将棋麻雀大会がありました。

日ごろから言っている年寄りのボケ防止、指の運動と頭を使うことによって少しは、ボケの防止になるという麻雀。

マージャンと言う字、麻(アサ)の雀(スズメ)、パイをかき混ぜる音がスズメが鳴くのに似ていると言うところからの表現だろうか、それなら朝という字になるだろうに。どこからマージャンと言う語源になったのだろうか誰か教えて下さい。

朝9時から集まっての大会、区民センターに何組もの囲碁と将棋が並べられていますが、マージャンは、場所を変えて近くのマージャン屋さんの協力を得て開催されました。私は、マージャンの部に参加させてもらいました、

総勢40人、10卓に及ぶもので、僕達の学生時代は学校の周辺に沢山のマージャン店がありましたが、今の学生さんはすることが多すぎてマージャンをやる方はたいへん少ないようです。

今回のメンバーをみると20代の方は5~6人で、後は50代以上80歳近い人までで、その中に女性が7~8人で30歳前の方が2人ぐらいおられました。

1試合50分の打ち切りで3試合の勝負。遅い方が入ったときには東場の親が回ってこずに終わることもありました。私は10位で残念な結果に終わりました。初めての参加でしたが、楽しませてせてもらいました。

結果、2位に若い女性が入賞していましたので、マージャンをする方の中にも達者な若い女性がいるということで、まだまだ捨てたものでもないように思いました。そして、健全な娯楽として昔のようなダーティーなイメージもなくなっていく事でしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八丈島の釣り/1981年12月

2009-06-22 12:58:47 | 釣り
半年ぶりに東京八丈島に釣行した。前回、釣友の中谷氏と来たときにヒラマサの入れ食いで良い目をさせてもらったのに味をしめての今回の釣行となった。

大阪から名古屋空港まで車で行き空港に車を置き、そこから八丈島まで飛行機で1時間足らずの飛行。

島に着くとすぐにレンタカーを借りて、地元の石積の鼻へ下検分に出かけた。地磯であるが八丈島きっての大型魚の釣り場で、6月には地元の釣り人が1.5メートルという素晴らしい大シマアジを仕留めている。

地元の人が何人か釣っていたので釣果を見せてもらった。50cmクラスのグレと小型のシマアジといった所で、誰も大型のシマアジやヒラマサは釣っていなかった。

翌日は午前3時起床。張り切って出掛けた。ところが風波が激しく危険なために夜が白むまで待機することとなった。夜明けとともに釣りを開始したが、潮が大変速い。道糸10号にハリス7号でのカゴ釣り。海面まで5m以上はあるのでタモが届かない。

中谷氏がまず竿を曲げたが小型のグレだった。続いて私に来たのは水炊きに良い50センチほどのウスバハゲ。風が強く竿が振りくいので他の人も交えての観音周りにして投げ込んでいく。

この磯にも何度か来ているため地元の釣人の中にも顔見知りが出来てきて、お互いに挨拶するようになった。こうなるとしめたもので、先に来ていても仲間に入れてもらえる。先端が狭いので仲良くしなければ釣りにならないし、入れてもらえない。

この日はグレの50センチクラスと三の字の50センチクラスがボツボツと上がったが、狙い井のシマアジやヒラマサはでなかった。

二日目、午前4時過ぎには石積みの鼻に立っていた。相変わらず風が強いので早く来たが、結局夜明けまで待つはめになった。

その日の第1号は私に来た。底物釣りが主で上物釣りはまだ2回目という新米釣り師だったので魚に振り回されてやっと上げたのは52センチのグレだった。

この磯で魚を掛けると全てゴボウ抜きでタモを使わないのである。そのためにも皆さんが太い仕掛けで釣っているので、掛けた魚はバラさないというのがここの磯の鉄則。

以前、ヒラマサ釣りで来た時も、掛けると皆さんが竿を上げて待ってくれる。そして一斉に「ブリアゲ!、ブリアゲ!」とのたまうのである。

この地元の人びとは朝の出勤前と帰宅後の時間に、ヒラマサを1匹釣りに来るのであるが、背中にカゴを背負い、竿1本とエサを少しを持ち、そして1匹釣るとこれがタバコ銭に変わると言う、気楽な釣りである。

地元の人はタモどは持ってきてない。私たちは1匹1匹を大事に捕りたいのであるが、先ほど言ったように、放り上げろの合唱なので、リールをすばやく巻いて磯の上に放り上げるしかないのでバラす率が多いので困るのだが、待ってくれているから、皆と合わさないわけには行かないのでブリアゲをする、そしてバラしてしまう。

この磯に歩いてくる途中に5~6段の階段があるのだが、この階段は、関西は泉州出身の釣人が自費で作られたとのことで、その方はここが気に入ってその後、この地で渡船屋と民宿をしているという、遊びの釣りが高じてこの地元で商売をはじめたという大変な方もおられます。

今回の釣りで楽しかったのは地元のヤッターマン氏。彼とは四度一緒に釣りをさせてもらったが、魚を掛けると磯の上で座したまま体を反っくり返らせて天を仰ぎつつ「ヤッターヤッター」と大声でどなる。本当に体全体で喜びを表しているのである。

南紀でこんなことやったら「うるさい」と近くの人に文句の一つもいわれるであろうが、大らかな八丈島ならであろう。

結局この日の釣果はグレの52センチを筆頭にシマアジ、サンノジ、ウスバハゲ、など25匹ほどで、大型のシマアジやヒラマサは出なかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

映画と思い出

2009-06-21 19:54:34 | 趣味
私の楽しみの一つでもある洋画。映画というものは見始めると次から次へと見るようである。甥がビデオショップをしていたときは毎日のように見たが、映画館で見るのとは迫力がやはり違う。

高校時代に友人たちがよくハンフリーボガードやジヨンウェインの真似をして、笑わせてくれた。ただその頃私は新聞配達を朝晩していたので映画にも課外活動にも参加できない口惜しさがあった。

ビデオを見まくったのは、その反動だったのだろうか。でも昔の話に出てくるようなものはなかなか見れなかった。

先日、当時の同級生と食事をしたときにその話が出て、それならと懐かしいDVDをう4~50枚持ってきてくれた。彼はその昔、私が豊岡の老人ホームを設計監督していて、現場に通っているときにも道中退屈しているだろうと、音楽のテープをたくさん作ってくれた。

これだけのDVD、生きてる間に見れるのかな。まず我が家のテレビから買い換えなければならない。もうすぐ今のテレビは機器を繋がないと見れなくなるようで、液晶に変えなアカンとの事。友とはありがたいものだ、感謝、感謝。

これを見たら今度は話の仲間入りができるだろうか。リオブラボー、ライムライト、捜索者、パットン大戦車軍団など懐かしいものばかりだ。

ブログを始めて3ヶ月は経ったようだ。始めに我がブログの先生に途中でやめるなら始めから止めておいてやと言われてるので、意地でも続けなければと思うが、果たしていつまで続くやら。

それより皆に読んでもらえているのか、コメントも欲しいものですが、見てるよといってる私の身近な方々、どうなってるの?。

このブログを口実に懐かしい人にも話ができるようになった。年齢の事を考えると、だんだん会う機会もなくなっていくのも事実だろう。

この前の日曜日のような、10時間も磯の上でイシダイと対峙するというようなことは少し無謀だろう。相棒の横田氏も良くがんばったのですが、彼も帰ってからハリ治療に行ってきたとのこと。他方、谷本氏も帰ってから両足がコムラガエリになって困ったと言っていたが、一番の年寄りの私が元気とは。

気持ちは若いもんにも負けないつもりだが、「体がついてこん」とはよくいったものだ。4年ほど前の男女群島への遠征でピリオドを打ち、最後の遠征として鹿児島の甑島へサンテレビの取材に山本兄弟と行きましたが、もう一度行きたいものです。そして歌の文句に出てくる天文館にも行ってみたいものです。

今なら鹿児島まで高速代1000円で走れるのだから、こんどはプライベートで行きたいものです。先ごろ彼は行ってきたらしいが、内緒で行かずに今度は声を掛けて下さいよ。

私が行けないときには、お土産に大阪屋製菓の豆菓子を買って帰ることを命令(?)します。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

故宮林勉氏のこと

2009-06-20 20:26:33 | 日々の思い
昨年6月に84歳で亡くなられたグレ住吉の宮林勉氏は、大阪府釣連盟発足時からの機関紙「さざなみ」の初代編集長として長きにわたりこれをまとめて下さいました。

私も当初より宮林氏の補佐役としてたずさわりました。温厚な性格で、集まらない原稿に対して腹の立つこともあったはずなのに、めったに怒ることのない人でした。

原稿が足りない時は自分で色々と紙面を埋めておられていました。機関紙というものは、仲間同士の情報交換と近況をまとめているようなもので、書いても一円にもならないので書いてくれる人も少ない。

お金のもらえる雑誌の原稿なら書く人もいるのですが、なかなか難しいものです。私も、少しでもそのお手伝いをと、釣りの原稿がないので釣りとはあまり関係のない食い道楽の記事でお茶を濁していました。

釣りにもよく一緒に行きました。特に釣り堀は、何だかんだといいながらも彼の仕事用のワンボックスを私が運転して、当時お付き合いのあった、今はもう会社がないのですがO社のKさんらと、家島の水宝さんへ何度か行きました。

道中、お互いに釣れてもいないのに釣った気分で憎まれ口を聞きながら走っていたのを思い出します。

10周年の記念誌を作る時は宮林さんの家に皆さんが集まって座談会もし、集まってもらった会員さんに連盟の未来像を熱く語ってもらったのも昨日の様に覚えています。

そして98ページにも及ぶ10周年の記念誌が出来上がりました。もうこれだけの記念号を作ることはできないでしょう。

私が連盟会長を辞める1年前に宮林さんとつまらないことから疎遠になりました。某会員さんの話に乗せられて、その話を信じられて疎遠になったのが今も悔やまれます。

私の話を理解されなかったのですが、2年後にその話をされた方は、結局、会を去る事になったので、その時点で私の言ったことを了解して下さったと思っております。

この間、3回忌がありましたのでお墓に参り報告をさせてもらいました。連盟の機関紙を10数年にわたりまとめていただいたことに会員一同が感謝しております。

昨年のお葬式のときの写真は一緒に種子島に行った時にシマアジを釣ったポーズの最高の笑顔の写真でした。私もあのような写真を1枚撮っておきたく思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする