頭で考えたものは
意味が限定されやすく、
インパクトがあっても、いづれ飽きるだろう。
ただただ対象へ、穏やかにやわらかにまなざしたとき、
言葉を超えて、降って湧くもの、それを形に起こしたなら、
きっとそこには
言語じゃない見えない愛情が
みえる形へ変換されている。
だからたぶん、究極は、何をやるか、ではなく
何をしても、そこにどんな思いを乗せるかが重要なのだろう。
表面的な結果は似ていても、乱暴に行なったのと
あたたかい思いでしたこととでは、見えないけど
確かな何かが、完全に別世界への扉を開かむ。
極論すれば、内容も
デザイン(見せ方)もあまり重要でなく、
どんな氣もちをもってそれをものしたかに尽きる。
手練れたモデルさんが抜かりなきポーズや表情を演じても、
内から本当にしあわせのエネルギーがあふれている人の、
何氣なきワンカットの前では薄れてしまう。
変わったことをする必要はない。
地味で不器用で、こじゃれていなくても、
一つ一つのプロセスを、暮らしを、
赤ちゃんを抱くようにやさしく丁寧に
していけば、秘めたる共鳴の連鎖が
しずかに渦まいていって、
目の前の風のなかに
きんいろの扉が、自ずと開かれていくでしょう。
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