十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

誤解だらけの佛教5

2018年04月24日 | 佛教

釈尊は後生を説かなかった

私は道元さんに私淑する。

その道元にも何としてもついていけない思想がある。その一つが「三時業」(前世・現世・来世の三時にわたる行為)である。道元は今生で、「善因楽果・悪困苦果」の業報(業の報い)の勘定が合わぬ者は、次生で、いや次々生で必ず合うと言う。カント先生も、道徳家だから、善いことをした者がこの世では不幸になり、悪いことをした者が幸せになっている事実を見て、来世がなければならぬと言った。道元は「三世の因果」を信じない者は「断見外道」だと口をきわめて非難する。

しかし、私は「因果」の道理を信ずることと「三世」を言うこととは別だと思う。

禅佛教は、常に「即今・此処・自己」の立場だけに立つ。そして前世を言い来世を問題にするのは、絶対現在の心のゆるみだと自省する。

それなのに道元さんの先の言い方を素直に取ると、文字どおりの「次生」(来世・後生)の存在を信じていたように聞こえる。我々現代人は、道元の時代と違って、初期佛教の経典を読むことができる。日本の仏教者の中でも、空海と道元だけは、大乗に執ゎれずに、小乗の『阿含経』典を読んだが、それにしても現代の我々のように、初期仏教の経典を古代インド語で読める幸せは持たなかった。その初期経典で、釈尊は「後有を受けず」と言い切っている。悟ったら、もう輪廻の生死は解脱した。だから、私はもう後有(死後の存在)は受けない、と言う。これは明らかなアフター・ライフの否定である。すると、道元さん流に言うと、お釈迦さんは断見外道か」ということになり、まことに妙なことになる。

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この件は道元禅師の正法眼蔵三時業に対する批判である。(http://www.shomonji.or.jp/soroku/genzou.htm)

私も秋月師の考えに同意する。

道元禅師は霊魂の存在を否定している。なのに生まれ変わりを三時業では肯定している。業というものを個体的に捉えているとしか言いようはない。業は全体的に捉え、生きている限り影響力は及んでくると考えるべきで、死んでいなくなってはその者に業の及びようもないと言うものである。

死後において衆生は迷っているから六道輪廻で、釈尊は悟られたからアフター・ライフがないというものでも勿論ない。誰でもそうでなければ真理でも何でもない。覚者と迷いの衆生との差はない。

コメント
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