佛法には(無我)にて候
佛教のスローガンは「無我」ということにある(〈無我説〉)というのは、しばしば耳にするところであろう。これはたとえば、インドの正統派の哲学思想が、ウパニシャッド以来、「我」 という〝輪廻・解脱の主体″の実在を前提とする学説、すなわち(有我説)であるのとの対比で、佛教の特色を示すものとされる。
佛教の(無我説)の範型ともいうべきものは、「五経無我」と呼ばれるものであるこの場合「我」には〝自由になるもの″〝(病いなどにかかって)変化しないもの〃という見方が前提となっている。この点を捉えて、漢訳佛典は「(我)とは〈常一主宰)の義」と定義している。「五蘊」(色・受・想・行・識)を挙げるほかには、「六人」(眼・耳・鼻・舌・身・意)を挙げるばあいも多いが、これも要するに我々が「自我」と考えているものを構成している諸要素である。そしてこれら五蘊とか六人の一つ一つを「法」と呼んでいる。つまり「諸法無我」とは、我々が自我と考えているものを構成している諸要素は、すべて戎ではない″、従ってどこにも〝我はない〃ということである 。
これが、自我は五蘊の仮和合であって、すべては因縁所生 (「縁起」によって生じたもの)だという「縁起」説である。「佛法には無我にて候」(蓮如)である。初期佛教が「縁起」説を基本とするというのは、「無我」説だからである。そして 「無我」説は断じて 「梵我一如」 の「大我」説にはならない。