”しんさん”のよもやま話

僕のビジネス感や社会現象に対する意見とかを趣味のヨットやゴルフ等の話を織り交ぜながらよもやま話的に発信します。

しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(112)

2006年09月13日 21時33分56秒 | ビジネス

9月13日(水)雨
秋の長雨シーズンになったんでしょうか?雨が降ると自転車に乗れないので、地下鉄の駅まで歩くのですが行きも帰りも歩くのが続きそうでいやになってしまいます。週末の連休も天気は厳しそうでクルージングはどうなることやら。でも佐久島の民宿は予約してあるので晴れてほしいものです。
ところで今日は「大学」の伝六章を読みましょう。小人閑居して不善を為す・・・と出てくるところですよ。

(伝六章)
所謂(いわゆる)その意を誠にすとは、自ら欺く母(な)きなり。悪臭を悪(にく)むがごとく、好色を好むがごとし。これを自ら謙(こころよ)くすと謂う。故に君子は必ずその独りを慎むなり。
小人閑居して不全を為す。至らざる所なし。君子を見て后(のち)厭然(えんぜん)として、その不善を揜(おお)いてその善を著す。人の己を視ること、その肺肝(はいかん)を見るがごとく然(しか)り。則ち何の益かあらん。これを中(うち)に誠あれば外(ほか)に形(あらわ)るという。故に君子は必ずその独りを慎むなり。

曾子曰く、十目の視る所、十手の指す所、それ厳なるか。富は屋を潤し、徳は身を潤す。心広く体胖(ゆた)かなりと。故に君子は必ずその意を誠にす。
右伝の六章、誠意を釈す。

(解釈)
「意を誠す」というのは、自らがその本心に欺くこと(=善だとわかっていてもできなかったり、悪だとわかっていても受け容れてしまうこと)がないと言うことである。悪臭をにくむがごとく悪をにくめば二度と悪にそまることはないし、好色を好むがごとく善を好めば必ず善を為すようになるのである。このようになれば自らが十分に満足でき、心は晴々と心地よいものである。従って君子たる者は、他人が見ていないところであっても慎むのである。
不徳の小人は、暇をもてあまし一人にしておくと、人目をはばかることがないと思い不善を為してしまうものである。これは慎むということを知らず、甘んじて自らを欺くからである。しかし小人と言えども、善を為し悪を去らねばならないことを知っているので、ひとたび君子をみれば、にわかに驚き恐れて、いやいやながらその不善を覆い隠して表には善をあらわそうととします。しかしながら、心の中の悪はまなこや容貌や起居動作に現れて、とうてい覆い隠すことはできないのである。他人が自分を見ることはさながら肺肝を見るがごとく、ただちにその真相を看破してしまうものであるから、隠そうとすることは何の益もないのである。これを心の中の真相はおのずから外貌に現れるといいます。それ故君子たる者は深く戒めて必ず独りを慎むのである。
(自らを欺くことの益なきを述べて独り慎むを説いたものである。)

曾子が補足して言うことには、十人の目が共にみるところ或いは十人の手が指すところでは、厳密であって、決して自らの欺きを覆い隠すことはできないものである。富貴であれば、その家屋はおのずと美しくなるように、徳が備わっていればその身は自ずから潤い美しくなるものである。仰いで天に恥じず、俯しては地に恥じないがために、心も自ずから広く、体もゆたかにのんびりできるのである。それ故君子たる者はその意を誠にするのである。
右は伝の六章、誠意を解釈したものである。

我々が現在も良く使う”小人閑居して不善を為す”の原典はここにあったのですかね。いろいろ読んでいくうちに僕らが日常よく使うフレーズが部分的に良く出てくるのが、ほっとしていいですね。あまり長くなってもですから今日はここまでにします。あと正心・修身・斉家ですね。それ以降の治国・平天下は政治的になりすぎてしまうので超簡単にします。それでは又。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(111)

2006年09月12日 22時07分28秒 | ビジネス

9月12日(火)曇のち雨
今日は秋篠宮殿下のお子様の名前が決まったようです。悠仁と書いて”ひさひと”と読むようですね。名前の通り、悠然とした心の広いそして仁のある人に育ってほしいものですね。

ところで「大学」を読むもだんだん終わりに近づいてきました。今日は伝四章からです。

(伝四章)
子曰く、訴えを聴くは吾猶人のごときなり。必ずや訴えなからしめんとかと。情なき者はその辞を尽くすことを得ず。大いに民志を畏れしむ。これを本を知ると言う。
右伝の四章。本末を釈す。

(解釈)
孔子いわく、訴えがある時にこれを聴いて是非・正邪を裁くのは自分も常人も大差なく変わらない。自分は必ず民が礼に従い、法を守って、訴えることのないようにしようと思う。誠ない者が虚偽の言を述べることのないようにし、己から訴えることのないようにするには、上に立つ者の徳が明らかで民の心を畏服させ、訴える自分が恥ずかしいと思うようになるためである。すなわち上に立つ者の明徳が本で、その結果訴えがなくなることが末である。
右伝の四章で、「本末」の解釈である。

(伝五章)
これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。
右伝の五章。蓋し格物致知の義を釈す。而して今亡ぶ。間(このこ)ろ嘗(こころ)みに窃(ひそ)かに程子の意を取ってもってこれを補って曰く、所謂知を致すは物に格るにありとは、・・
・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・
力を用いるの久しきに至って、一旦豁然として貫通すれば、則ち衆物の表裏精粗(ひょうりせいそ)到らざるなく、吾心の全体大用明らかならざるなし。これを物格と謂う。これを知の至りと謂う。

(解釈)
これを本を知ると謂う。これを知の至りと謂う。右は伝の五章の格物致知の意味を解釈したものであったが、今はなくなってしまったものと思われる。そこで程子の意見を取って朱子が補ってみた。その文に曰く、・・・「いわゆる知を推し極めて、
残すところなくしたいと欲するならば、自分の周りの事物についてその道理を窮め尽くす事である。知があるということは当然道理があると言うことであるが、天下の事物には、いまだ極め尽くされていないものもあるので知も尽くされているとはいえない。「大学」の人に教える最初は、必ず学者が天下の事物について、既に分かっている理をさらに深く探求して、極め尽くすことを求めるのである。」・・・「」内は中略部分の解釈
この方法によってずっと継続すれば、次第に熟達してついには豁然として心眼が開け、あまたの事物の表裏・精粗がわかるようになるのである。そして万事に応じる大用を明らかにすることができるのである。この表裏・精粗がわかり心眼が開けることを格物と言うのであり、万事に応じる大用を明らかになることを知の至りと謂うのである。

だんだん解釈が読みやすくなってきたように感じませんか?最初は忠実に解釈しようとして日本語にならない感じでしたが、意味を自分なりに考え自分の言葉で表現してます。従って読みやすいかもしれませんが独断的なところもありそうです。まだまだ自分が至らない証拠かもしれません。
今日はここまでにして下さい。終わりまでと思ったけど読んで解釈するのにやっぱり時間がかかります。今日はまだ早いかもです。では又明日。


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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(110)

2006年09月11日 22時51分17秒 | ビジネス
9月11日(月)晴のち曇
きょうは午前に首と胸にできた吹き出物の処理に病院に行ったのですが、ドライアイスを付けて吹き出物を取る療法を先週同様にしてきました。以前(7月)の時ははさみで切って終わりだったのですが今度のやり方は痛くてなかなか直らないので早く切ってもらいたい感じです。何かいろいろ実験されているような感じであるのと何回も治療に通うため病院経営としてはいい治療かもしれないのとで少々いやになってきてしまいました。と言って途中で止めるわけにはいかないのでもう一回どこかで休みを取っていかねばなりません。まぁ患者は医者にまかせた以上しかたないですね。
さて今日は一昨日の大学の続きですが伝三章の解釈が時間切れになってしまったので、そちらを修正しますので、今日は四章以降の解釈を明日に延期します。誰も読んでいないとは思いますが一応アクセスはあるようなのでもしごらんになっている方がみえましたらほんとにごめんなさい。まだまだ自分のいたらなさを感じます。9月9日(土)の後半に解釈を入れるので興味あればみてくださいね。それではまた。
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しんさんのよもやま話・・・ヨット編(31)

2006年09月10日 23時25分43秒 | 趣味
9月10日(日)晴
今日は来週のクルージングの準備でハーバーに行ったついでに前回アジをたくさん釣った場所だけ確認しようとY君と二人だけでクルージングに出てしまいました。強くもなく弱くもなくちょうどいい風でしたので気持ちいいセーリングができました。場所を確認しようと佐久島の北海域に行くと結構一杯釣り船が出ていて近寄りがたかったので少し風下側でとりあえずこの前と同じさびき釣りをしてみるとなんとまたアジがかかってしまいました。とりあえずセールをおろして少し釣って帰ろうと僕が釣りをして、Y君が操船し、水深8m程のところで又もや入れ食い状態になりました。アジは前回より大きいのと前回と同じぐらいのものと若干バラツキはありましたがよく釣れました。3度目ぐらいには一度に5匹釣れると言うすごさです。二人だけなのであまり一杯釣っても困るので13匹釣った所で帰ることにし、また約一時間のクルージングを楽しみました。あのポイントは釣り出したらきりがないので丁度よかったと思います。今度大勢で来た時には一杯釣ればいいのですから。
来週は鳥羽にクルージングに行く計画でしたが6時間ぐらいかかることと魚釣りをもっと楽しむことを考慮して、佐久島の民宿に泊まる計画に変更しようと思います。佐久島なら停泊場所もよく知っているし、アジのポイントのすぐ近くなので、釣りを楽しむこともできそうです。今回は女性はいないし、いつものおじいさんメンバー4人だけになりそうなので宿もあまり気を使わず適当に頼めばいいと勝手に思っています。でもいつものことですが大概一回はみんな来るけど一年に2回クルージングをしたいと言う人はあまりいないものですね。僕は自分が好きだから、すべてに優先して考えるけどやっぱり普通の人達はお付き合いでしょうね。まぁそれでいいのですけど。
ヨット編の次回は来週の連休後です。そして次は再来週と今月の休みはほとんどヨットに乗って今年のシーズンも終わりになってきそうです。それではまた来週のヨット編をおたのしみに。
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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(109)

2006年09月09日 23時43分38秒 | ビジネス

9月9日(土)晴
今日は折角書いたのが途中で消えてしまって書き直しです。はっきり言っていやになっちゃいました。とにかく漢字が難しくて辞書から引き出しながら書いているので結構時間がかかるのですよ。とりあえず、今日中に間に合うところまで書いてアップします。そして月曜にでも修正しますのでこの文は来週見るようにして下さい。


(伝三章)
詩に云わく、邦畿千里(ほうきせんり)、惟れ(これ)民の止まる所と。詩に云わく、緡蛮(めんばん)たる黄鳥、丘隅(きゅうぐう)に止まると。子曰く、止まるにおいて、その止まる所を知る。人をもってして鳥に如かざる可けんや。あ

詩に云わく、穆々(ぼくぼく)たる文王、於緝煕(ああしゅうき)にして敬して止まると。人の君と為っては仁に止まる。人の臣と為っては敬に止まる。人の子と為っては孝に止まる。人の父に為っては慈に止まる。国人と交わっては信に止まる。

詩に云わく、彼の淇澳(きいく)を瞻(み)れば、菉竹(りょくちく)猗々(いい)たり。斐たる君子有り、切するがごとく磋するがごとく、琢(たく)するがごとく磨(ま)するがごとし。瑟(ひつ)たり(かん)たり、赫(かく)たり喧(けん)たり。斐(ひ)たる君子あり、終(つい)に諠(わす)る可(べ)からずと。切するがごとく磋するがごとしとは学を道(い)うなり。琢(たく)するがごとく磨(ま)するがごとしとは自ら修むるなり。瑟(ひつ)たり(かん)たりとは威戯(いぎ)なり。斐(ひ)たる君子あり、終(つい)に諠(わす)る可(べ)からずとは、盛徳至善(せいとくしいぜん)、民の忘るる能(あた)わざるを道(い)うなり。

詩に云わく、於戯(ああ)前王忘れずと。君子はその賢を賢としてその親を親とし、小人はその楽しみを楽しみてその利を利とす。ここをもって世を没して忘れざるなり。
右伝の三章。至善に止まるを釈す。

(解釈)
月曜に入れます。以下に解釈をいれます。
詩経に商の都は千里四方の広さで、民が止まりおるところとあります。同じく詩経に緡蛮(めんばん)と鳴くうぐいすは樹木がうっそうと茂る丘隅(きゅうぐう)の地に止まっている。孔子は是を解釈して止まりおるには、あのうぐいすのごときものすら、その止まりおるところを知っている。いわんや人として至善(しいぜん)を選んで止まることができないようなら、鳥にも
及ばないことである。

詩経に周の文王を耽美して、穆々(ぼくぼく)として深遠なる文王は、その徳が継続して絶えることなく、敬してその止まるべきところにいると言います。すなわち、人君となっては仁に止まり、その行うところは必ずや仁政となります。人臣となっては敬に止まり、その主に忠誠をつくし、謹直に職をつとめべきであります。人の子となっては孝に止まり、親孝行すべきであります。また人の父となっては慈に止まり、一家を慈愛を持って守るべきであります。また国人と交わっては信に止まり、信用を欠く事のないようにすべきであります。人として文王を模範とすべきである。

詩経に衛の武公を美してこう言っている。彼の淇水(きすい)と言う川のほとりには、緑竹が美しく茂っている。あの美しき緑竹のごとく、斐然(ひぜん)として文ある君子がいる。その人はたとえば骨角を治めるには、切ったりあるいは磨いたりして器とするがごとく、また玉石を治めるには、これを打ったり磨いたりして美しくするがごとく、学問・徳行を兼ね備えている。その精神は瑟(ひつかん=厳密で毅然としていること)と謹厳であり、その風采は赫喧(かくけん=権威があって猛々しくはないさま)としている。このような君子はいつまでも忘れることができない。
ここには僕らがよく使う熟語”切磋琢磨”の語源になる文章がでてきてます。

同じく詩経に周の文王・武王を指して、前王忘れずとある。文武は既に崩ずるも後世の人が長く思慕して忘れないのは、よき模範となっているからである。後の君子は賢を賢として遺法に従い、祖先であるがゆえにその親を親として永く尊敬する。又百姓は又前王の余沢により、太平の楽を享け、各々がその業に安んじて利を得ている。君子も小人も皆前王の恩沢を受けていることは大である。従って後の人は、その人が没したあとも永く忘れないのである。
右は伝三章で、至善に止まるを解釈したものである。

以上が解釈です。ちょっと長いけど、孔子が理想とした周の文王・武王の話ですね。”切磋琢磨”もここででてきましたね。我々の日常の原典を知るのもまた楽しからずやですね。



 

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(108)

2006年09月08日 23時16分23秒 | ビジネス

本末9月8日(金)晴
「大学」はなかなか難しいですね。ちょっと息切れ状態だけど、切れのよいところまでは頑張ってみます。一度始めたことを中途半端に止めるのは自分の主義じゃないのでとにかくやるつもりです。バカな性格ですよね。でもいまさら変えることもできないので。

さて今日は伝2章からですね。

(伝2章)
湯の銘の盤に曰く、苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと。
康誥(こうこう)に曰く、新民を
作(おこ)すと。
詩に曰く、周は旧邦と雖(いえど)もその命維(こ)れ新たなりと。
この故に君子その極を用いざる所なし。
右伝の2章。新民を釈す。

(解釈)
商(殷)の湯王の手水洗いの銘盤に書かれている「誠に日に新たにして、心を洗い清めて旧来の悪習を除いて自らを新たにし、一度のみならず日々に新たにし、なお又日に新たにせねばならない。」日々己を新たにすることが新民を作るもとであります。また周書の康誥(こうこう)に述べられていること(人民の中に善に向かって日々新たにしている者があれば鼓舞振起させて、喜んで善をさせるようにしなさいと言うこと)もまた民を新たにすることである。また詩経の大雅文王の編にも「周は先祖后稷(こうしょく)以来歴史は古いが文王に至ってその徳を明らかにしたので天命をうけて天下を保つことができたので、その命は新たなりと言わねばならない。すなわちこれも民を新たにする効果である。それ故君子は自らが新たににし、民を新たにすると、皆善の極致に至ることができるのである。
右は伝の2章で、民を新たにすることを解釈したものである。

経一章で言う大学の道は明徳、新民、至善であるがこれらの解釈を伝首章、二章、三章でして行くわけですね。従って伝3章は至善の解釈をすることになりますがそれはまた明日にします。
伝の四章から十章までは本末の解釈から明徳の効果である格物致知・誠意・正心修身・修身斉家・斉家治国・治国平天下の解釈になります。伝四章からはまとめて簡単に説明してこの話は終わりにしたいので、今しばらくご辛抱ください。
それではまた。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(107)

2006年09月07日 22時59分07秒 | ビジネス

9月7日(木)雨
予定通り昨日は飲んでしまいました。実は静岡から昔懇意にしていただいたお客様が名古屋で一杯やりませんかとお誘いを受け、なつかしくかつあれから5年以上たつのに毎年ゴルフをしたり、飲んだり付き合っていただいてます。去年は仙台まで行ってゴルフをしてきましたが今年は骨折やらで音信不通だったのですが急にメールが来て飲むことになりました。そこで馬鹿の一つ覚えでマグロのしゃぶしゃぶを食べにいきました。この前は満員でダメでしたが昨日は客が一人もいなくて、一年ぶりの近況を話しながらマグロのしゃぶしゃぶは結構好評でした。Kさんからはいつも名古屋に来ると普段食べれないおいしいものを紹介してくれるねとほめられて、自分もうれしくなってしまいます。ちなみに前回はうなぎ釜飯でした。折角名古屋に出てきて今日はゴルフに行っているはずですけどこの雨ではちょっと大変でしょうね。

ところで「大学」の続きですけどエッセンスは前回で終わりでその解釈が伝首章~十章なので気楽に意味の補完ができればいいと思います。


(伝首章)
康誥(こうこう)に曰く、克(よ)く徳を明らかにすと。大甲(たいこう)に曰く、(こ)の天の明命(めいめい)を顧みると。帝典(ていてん)に曰く、克く峻徳(しゅんとく)を明らかにすと。皆自ら明らかにするなり。
右伝の首章。明徳を明らかにすることを釈す。

(解釈)
四書五経の五経(詩経・書経・易経・礼記・春秋)の中の書経には過去の模範的国家の偉人の言葉が記されています。殷王朝は商書、周王朝は周書、堯は堯
典といいます。そのことを踏まえた上で以下の解釈を読んでください。
周書の中に出てくる周公が康叔に告げた言に”よく徳を明らかにすること”とあり、商書には伊いんが太甲を諌めた言に”天の明々白々たる命令を顧みて、絶えず気をつけていれば失うことはない”とあり、堯典には堯の徳を称して、大徳を明らかにするとあります。以上の三つはみな自ら己の”明徳”を明らかにするといったものです。峻徳と言ったのは明徳の分量の大なることを言います。
右伝の首章は曾子が明徳を明らかにすることを解釈したものです。

要は明徳とはどんなことかを古代の理想とする国の歴史になぞらえて解釈したものです。と言われてもなかなか難しいですよね。僕らが殷や周の歴史自体を知らないのですから。
今日はここまでにしましょう。それではまた。

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(106)

2006年09月05日 22時41分10秒 | ビジネス
9月5日晴時々曇
朝晩少し心地よい風が吹くようになりましたね。残りあとわずかで今年のヨットシーズンも終わりです。今年は前半を骨折で棒に振ってしまったので、何か不完全燃焼ぎみです。
「大学」は今日経一章の残りを読み明日以降伝一章~十章で終わりです。かなり短い書ですが中身が結構重いですね。それでは続きを

古(いにしえ)の明徳(めいとく)を明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。
その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。
その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。
その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠(まこと)にす。
その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知を致(いた)す。
知を致すは、物に格(いた)るに在り。

物格って后知至る。知至って后意誠なり。意誠にして后心正し。
心正しくして后身修まる。身修まって后家斉う。家斉いて后国治まる。
国治まって后天下平らかなり。

(解釈)
前段と後段は同じ内容ですよね。多分後段の方が順序的には分かり易いと思います。
格物とは「大学」で言う六芸(礼・楽・射・御・書・数)を極めることを言い、六芸を極めることによって知に至り善悪の弁別に惑うことがなくなります。知に至ることにより誠実にして身を欺くことがなくなります。意誠にすれば心は正しく、心が正しければ己の身が修まります。身が修まれば一族・一家が斉(ととの)います。一家がちゃんとととのえば、国が治まります。国が治まれば天下太平の世の中になります。まさに古きよき時代の明徳が実現していることになります。

と言う解釈でどうでしょうか。要は上は天子より下は庶民にいたるまでわが身を修めることがないかぎり天下太平の世の中にはなりませんよ。と孔子は言っています。
この経一章は孔子が言ったことを曾子(そうし)が記述したもです。このあと伝首章から伝十章までは曾子の意見でその弟子達が書き加えたと大学には書かれています。すなわちあとの伝首章から十章はこの短い経一章の解説になるわけです。従ってよく意味がわからなくてもさらに解説されていくので安心してください。
今日はこれまでです。明日は静岡から客人が見えて、一杯やることになっていますので休ませてもらいます。そしてあさってから伝十章までを読むことにします。
短いけど奥が深くてまだまだ修行が足りませんがお付き合いよろしくお願いします。
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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(105)

2006年09月04日 22時55分22秒 | ビジネス

9月4日(月)晴
昨日に続いて「大学」を読んでいくことにします。「大学」儒教の経典と言われる「四書五経」の中の四書の一つです。他には「論語」・「孟子」・「中庸」があります。「大学」は朱子学の祖、朱熹によって元々は礼記の中にあったものを四書として整理されたと言われています。政治思想の根本を説いたものと言われていますが、人間の在り方や修身の教科書としての意義の方が大きいように思います。
(経一章)から始めますが、長くなるところは途中省略もありで行きます。

(経一章)大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親(アラタ)にするに在り、至善(シイゼン)に止まるに在り。

(解釈)

大学の道は、天から得られる本当の徳を追求し、人間の身に付けるべきものが何であるかを明らかにすることが第一。次に一般の人民を導き、旧来の悪習を取り除き新しく変えていくことである。そして至善(君の仁、臣の敬、子の孝、父の慈、友の信)の状態を維持することである。要するに学問を究める道はまず孔子の言う「徳」を明らかにすることであり、さらに一般人民の欲望のままの行動を改めさせることであり、そうして出来た善に満ちた世界を維持していくことが大学の道です。


止まるを知って后(のち)定まる有り、定まって后能(よ)く静かに、静かにして后能く安く、安くして后能く慮(おもんばか)り、慮りて后能く得。
物に本末あり、事に終始あり。先後(せんこう)する所を知れば則ち道に近し。

(解釈2)
至善(しいぜん)に止まることを知って、そのあとに志の向かうところが定まります。心が動揺することなく一定になれば、そのあと静かにして騒乱することなどありません。心が静かにして、そのあと身は安らかにできます。身が安らかになれば、そのあと事に当たって熟慮することができます。熟慮することができれば、過ちのない良い結果を得ることができます。
物には本末ががあります。明徳があって新民ができるのです。事には終始があります。すなわち至善に止まること知ることから始まってよい結果が得られることで終わります。物の本末、事の終始の順序を知れば大学の道はおのずと近いことになります。

結構簡単だと思ったのですが難しいですね。自分で言い出していながらいやになっています。ひょっとすると途中でやめてしまうかもしれませんがその時はごめんなさいです。
それではまたあした。


 

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しんさんのよもやま話・・・ビジネス編(104)

2006年09月03日 23時28分42秒 | ビジネス
9月3日(日)晴
まだ暑い日が続きますね。ゴルフの練習に行こうと思ったけど止めて冷房の効いているパチンコ屋に行ってしまいました。今日はちょっとプラスで結構遊ばせてもらいました。もっと生産的なことができたらいいなと思いつつ休みもすぐに終わってしまいます。
ところで今週から儒教の政治思想の根幹をまとめた{大学」を読みながらブログにまとめてみようと思います。多分つまらないと思うので皆さんはあまり見なくていいですよ。
昔小学校の校庭には薪を背負って本を読んでいる二宮尊徳の像がどこに行ってもありましたがご存知でしょうか?あの二宮尊徳の読んでいる本は「大学」だと言われています。自分も論語はいろいろな本で読みましたが「大学」ははじめてなので自分の勉強のつもりで書いています。
序は飛ばして本論から

子程子曰く、大学は孔氏の遺書にして、初学徳に入るの門なり。今に於いて古人学を為すの次第を見るべき者は、独りこの篇の存するに頼る。而して論孟これに次ぐ。学者必ず是に由りて学べば即ちその差わざるに庶からん。

子程子が言いました。「大学」の書は孔子が後人に遺してくれたもので、初学者が徳に入る時の門のような本であります。今の世にあって古人の学問をなしたる次第順序を見る事ができるのはただ一つこの本があるからです。「論語」や「孟子」はこれに次いで必要な書であります。学者は必ずこの「大学」によって学べばあやまちを犯さないと言えます。

多分こんな意味でしょう。一応、講談社学術文庫の「大学」宇野哲人訳注を参考にしてますが訳自体よくわからない文章なので、訳を僕が勝手に解釈してますのでご指摘あればコメント下さい。
今日は最初なので本論の序文だけにします。
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