8月1日(水)晴
梅雨が明けたかと思えばもう8月です。夏は日本人にとってはいろいろ楽しい思い出の多い月ですよね。夏祭り・花火大会・海水浴・盆踊りの各種行事とスイカ・アイスキャンディー・トマト・キュウリ・とうもろこしと言った夏の食べ物にみんな思い出があると思います。
さて今日は先週の約束どおり「中庸」の解説をしていきたいと思います。
少し復習です。「中庸」の「中」とは過ぎたるもなく、及ばざるもなく、いずれに偏ることもない、まさに一番正しい心の状態を言います。また「庸」とは万世にわたって変わることのなく保ちつづけることを言います。従って「中庸」とはいずれかに偏った判断をすることもなく常に正しい心を万世までも保ち続けるための教えを説いたものです。
「中庸」は孔子の孫弟子にあたる子思が記したと言われており、宋の時代に朱子(朱熹)が整理・補足して儒学体系として四書五経の中の一つとして世に知られるようになったものです。
これらの書物が江戸時代に日本に入ってきて、朱子学としてさかんに研究され、日本的な考え方も加味して「武士道」なるものが完成したと僕は考えています。
さてこの「中庸」は第一章で全てを総括して言い、2章~32章で細かく紐解きをして、最後にまとめると言う形をとっているのでまず第一章はよく意味がわからずともきちんと読んでおくことです。
ではその一章とは
天の命ずるをこれ「性」と謂い、「性」にしたがうをこれ「道」と謂い、「道」を修むるをこれ「教え」と謂う。
(人が生まれつき先天的に持っている心を「性」と言い、この天性、自然に従った行いを「道」と言い、この自然に従った天道・人道を修め極め天下の法則としたものを「教え」と言う。)
道は須臾(しゅゆ)も離る可からざるなり。離なるべきは道に非ざるなり、是の故に君子その見ざる所を戒心し、その聞かざる所を恐懼(きょうく)す。隠れたるより見るるは莫く、微かなるより顕なるは莫し、是の故に君子は独り慎むなり。
(道は自然に備わった天性に従うものであるからいか時も離れることはない。もし離れるものがあればそれは道とは言わない。それ故君子たるもの目に見えない所もあることを戒め慎み、耳に聞こえない所があることを恐れ慎むのである。隠れているものは見えることがないけどやがては露見するものであり、また微細なことは顕著のなることはないが、いずれ外に影響を与えるものである。それ故君子は人の知らないことについても自分独り慎むのである。)
喜怒哀楽の未だ発せざる、これを「中」と謂う。発して皆、節に中(あた)る、これを「和」と謂う。「中」は天下の大本なり。和は天下の達道なり。「中」「和」を致して、天地位し、万物育す。
(喜怒哀楽がまだ発していない渾然とした精神の状態を「中」と言う。この状態の時は生まれたままのどちらにも偏りがない自然の状態です。それが喜怒哀楽の感情が起こると、皆当然の節にかなうのは情の正しさを持って過ぎたるも及ばざるもない状態にすることを「和(か)」と言う。「中」はすべての物の根本となるものである。「和(か)」は情の正しさ、道の方法であり、天下の達道である。「中」と「和」を推し極めることができれば、家・国・天下は安定し、人も物もその生を遂げることができるのである。)
以上が子思が孔子から伝えられた教えの趣意を述べたものである。初めに道の根元が天より出でて、一定不易のものであり、生まれながらにして自己に備わっているもので離れることのできないものであることを明らかにし、次に見えざる、聞こえざる所を独り慎むこと(存養省察)を言い、最後に「中」「和」を推し極めて全てのものが生を遂げることができる(聖神功化)と言っている。この点について儒教を学ぶ者が自分の身によく自覚して、体得し、外界の誘惑に迷うような私欲を去って、善を充実することを願っている。この章は「中庸」全編の意義を総括して、要旨を述べたものである。これ以下の10章はは孔子の言を引用してこの章の意義を補足的に述べたものである。
ここまでが第1章です。今日はここ迄です。次回は孔子の言の引用から参考になる部分をとりながら三達徳、五達道、九経等儒学で言う道の詳細をみていくことにします。
結構疲れます。ここまで読んでくれた人ありがとうございます。
それではおやすみなさい。
それから先週土曜のヨットの写真ができてきました。次回にでも紹介します。
まだ梅雨明け宣言は東海地方ではでていませんが昨日・今日の様子だと明けたような青空ですよね。僕にとってはうきうきするような天気になりました。真夏の太陽と青い海と白いヨットの季節です。今年も汗びっしょりになりながら楽しめたら最高です。
さて今日のテーマは去年の10月22日を最後に止めにしていたビジネス編を再開しようかと思います。と言ってもそんなにころころ信念が変わる訳ないのでビジネス論は控えめにしてもっと精神の持ち方とか哲学に近い話をしてみようかと思ってます。たまたま1年近く前に(06年9月3日~15日)ビジネス編の104~114まで10回にわたり、儒教の経典である四書の中から「大学」について悪戦苦闘の解釈を試みました。それに呼応して同じ四書から、今回は「中庸」を解釈してみようとしています。前回は宇野哲人さんの訳を変形した難解なものとなってしまった反省から、同じ宇野哲人氏の全訳からさらに僕が理解したレベルでかくつもりです。
今回はその前段として儒教全般の解説と「大学」と「中庸」の違いのようなものを簡単に紹介することにとどめ、次回以降のビジネス編において10回程度の連載にしてみます。と言ってもその間、途中にヨット編やゴルフ編や番外編も入ることはお許し下さい。週1回の平日はビジネス編、土日はヨット編・ゴルフ編等を原則として続けてみます。
さて儒教の経典は四書・五経ですが、これらの元はと言えば中国太古の神話の時代の聖人である堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)の時代から周の文王・武王の時代までを理想として、孔子がそれまでの伝統的な生活様式や社会通念・道徳や考え方を整理して、考え方や修業の方法を説いたものが儒教とよばれているようです。従って儒教の教えは極めて普通であることが根本であり、人間臭さを追求したものと言えます。そこが道教と異なるところで道教は無為自然といった人間を超越した所に根本をおいている点でむしろ後世になって儒教に対抗してできたものであると思われます。道教による儒教の攻撃が始まった時代に孔子の教えを後世にきちんと伝えるために記されたのが「中庸」と言う書物です。これらの経典は宋の朱熹(朱子)によって整理され四書五経として我々が知るところとなったので、それ以前は混沌としていたと思います。
儒教の経典のうち「大学」は政治に重点をおいたものであり、「中庸」は倫理に重点をおいたものといわれてます。要は「大学」は人を治める方法を説いたもので、「中庸」は己を修めるための倫理・道徳を説いたもので、この二つを持って「修己治人」と言い、この二つが儒教目的と言われてます。要は己を修め、人を治め、国を治める考え方を記した書物が「大学」、物事の道理を説き誠を尽くすことが天命だとする生き方の原理・原則を説いたものが「中庸」だと思います。
ここまでをちょっと頭に入れて次回以降を見ていただけばよりわかりやすいかなと思います。
それでは、次回のビジネス編もよろしく。
ただし今週末は多分ゴルフ編とヨット編が入ると思います。悪しからず。
昨日は急に飲むことになってしまい、ブログが書けませんでした。僕はあまりお酒は得意ではないのですが、酒席の料理が大好きなのと若い女性と話をするのが好きなのでつい誘われると一緒に行ってしまいます。その時はつかの間の楽しさを味わい、そのあとはなんとも言えないさびしさを味わいます。まぁそれでバランスがとれていいのだと思います。
今日のいい話は約束どおり詩にします。それも酒の詩にしましょう。酒を歌った詩はいろいろあるけど、共通して言えるのは酒を褒め称えることで人生のつらさや悲しみを覆い隠して自分を励ます応援歌のような詩が多いような気がします。そんな中から李白の「月下独酌」を。
花間 一壺の酒
独り酌んで相親しむ無し
杯を挙げて明月を迎え
影に対して三人となる
月 すでに飲むを解せず
影 いたずらに我が身に随う
暫く月と影とを伴い
行楽 須く春に及ぶべし
我歌えば月徘徊し
我舞えば影凌乱す
醒時はともに交歓し
酔後は各々分散す
永く無情の遊を結び
遥かなる雲漢に相期す
花と花に囲まれて一壺の酒を
独りで酌んだが 交わす相手もいない
そこで杯を挙げて 明月を迎え
自分の影と向き合って三人になった
だが月は酒を共にすることはないし
影は我が身に従うばかりである
しかたがないけど月と影とを伴って
春を心ゆくまで楽しむことにしよう
俺が歌うと月がさまよい
俺が舞うと影が揺れ動く
酔っていないうちは一緒に楽しんでいるが
酔ってしまえばバラバラになってしまう
いつまでも非情の交わりを結び
はるかかなたの天の河での再開を期そう
こんな気分で酒を飲むことはないですか。人生の憂いを感じながら、言葉に出すことなく、孤独を楽しむかのように静かに酒を飲む。これが男の耐え方の典型だと自分は思っているので敢えて取り上げました。この詩の底辺には「お互い辛いけどがんばろう!」と言っているようではありませんか。静かに独り飲みながら、それでも俺はやれるだけは頑張るぞっと言った元気を与えてくれる詩です。日々の仕事は順風満帆とはいかないものです。独り酒を飲みたくなった時には、ちょっと「月下独酌」を思い出してください。酒を飲まなくても月と影を引き連れて潮騒の詩を聞く風情を味わうのも同じです。飲み屋で鳴いたり喚いたりするよりずっとかっこいいと思うのは僕だけでしょうか?
酒の詩は陶淵明なども「・・・悠然として南山を見る・・・」なんてのもありましたよね。僕は質実剛健のようで細やかな精神をもった李白の詩が若い頃好きだったので月下独酌にしました。
それではこの辺で。明日は年次休暇をもらい、今年3回目のゴルフに挑戦してきます。
今日もいい天気でした。最近ヨットやゴルフで週末を過ごすためか週明けは体がきついです。仕事は従来趣味の延長のような感じでずっと過ごしてきましたが、一線を退いたあとの仕事はできる限り自分が動かずに若い人に中心にと思いながらやっているので逆にすごく疲れます。なかなか世阿弥のような心境にはなれないと感じています。
そこで今日は世阿弥の初心忘するべからず三箇条の話をしましょう。
「初心忘るべからず」とはよく言われる言葉なので誰でも知っていることだと思います。そして入社時の覚悟や純真な気持ちを持ち続けることの大切さを教えてくれてます。室町時代に「能」は観阿弥・世阿弥により芸術として完成されました。「花鏡・奥の段」には世阿弥の能という芸に対する秘儀を伝えています。その一句を抜粋すると
初心忘るべからず
此句、三箇条の口伝あり。
是非初心忘るべからず
時々初心忘るべからず
老後初心忘るべからず
此三よくよく口伝すべし。
若年の初心の時の不細工で、へたくそだった時のことをずっと覚えておきなさい。そうすればうまくなっても鼻高にならず、年をとってからさまざまな徳があります。
時々・・・とは修行の段階に応じてそれぞれの時期の初心を忘れるなということで、20代・30代の若い頃のはなやかな動きのある芸の段階の初心も、40代の芸における能を少な少なにして惜しむ風体にしていった芸の段階の初心を忘れてはならない。そうすることにより芸の巾が広がっていくのだ。
また老後に及んでも老境の初心を忘れるな。命には限りがあるが能には限りがない。それぞれの時期の演技を一つ一つ習い覚えすべて身につけてもさらに老後の姿にふさわしい技芸があるのである。こうして生涯初心を忘れずに過ごせば、引退の舞も上達一途のうちに舞うことができ、最後まで退歩すると言うことがないのである。これが観世流の奥義である。
多分此の一句ではよくわからないかもしれませんが、此の句の前後に解釈が書かれているので説明はそれを踏まえて解釈してみました。
これは「能」と言う芸について書かれた話ですが、ビジネスもまったく同じことが言えるのでないでしょうか。若いビジネスマンは行動力にものを言わせてチャレンジしビジネスの何たるかを極めその初心を忘れないことが年をとって人を指導するときに役立つはずですし、壮年期にはビジネスの中核として無駄のない効率的な動きをして成果をあげながら、余った時間を後輩の指導にあたり、老いてもなお老獪なビジネスの奥義をみがくことにより事業そのものの成果をあげ、経営として成立つまでに完成するための初心忘れるべからずである。
まぁそんなにうまく行かないまでも、その時その時の初心を持って人生を邁進していくことが技芸を極めた者の生き方だと思います。僕も年はとったけど、それにみあった生き方をして行きたいものです。
今日は花鏡から世阿弥の観世流の奥義の一節を紹介させてもらいました。ほんとうは好きな詩の話を書く予定でしたがイントロの延長で急遽世阿弥になってしまいました。ちょっといい漢詩の話は明日以降にしましょう。ではまた。
今週最後のビジネス編です。と言っても僕の書くビジネス編はほとんどビジネスそのものの話はまったくないので、読んでいる方からお叱りを受けるかもしれませんね。ただ一言言わせていただくとビジネスをして行く上で一番大切なのは心の持ち方だと思っています。テクニックなどは教わるものでなく自分で編み出していく物です。最近人間としての道をはずれても儲かればいいといった風潮になってしまっています。またその一方で人としての道にはずれた行為に対して世間の目はいっそう厳しくなっているのも事実です。法律に触れなければ何をやってもいいと言ったものに対して我々一般人は心では違うと思っても法律に反してないかぎり黙って見てるしかありません。だから一度法律に反していることが明らかになれば誰も黙っていません。今迄の鬱憤を晴らすかのように大きな声となって帰ってくるのでしょう。ビジネスは長く存続することに意義があります。そのためには人の道をよくわきまえて、自身を磨くことこそもっとも大切なことだと僕は思っています。と言って僕がすばらしい人間だとはとても言えません。自分は人に教える資格もない、いたらない欠点だらけの人間です。だけど少しでも先人に学び心の豊かな人間になりたいと努力してます。たとえそれが報われることもないとわかっていても、いい生き方をしたいから。
と言うことで今日のいい話は、老子の「跂(つまだ)つ者は立たず」です。
跂(つまだ)つ者は立たず、跨ぐ者は行かず。
自ら見(あら)わす者は明らかならず、自ら是とする者は彰(あきら)かならず。
自ら伐(ほこ)る者は功なく、自ら矜(ほこ)る者は長とせられず。
その道におけるや、余食贅行(よしぜいこう)と曰(い)う。
物或(つね)にこれを悪(にく)む。故に有道者は処(お)らず。
つま先で立つ者は長く立っていることはできないし、大またでまたぐように歩く者は遠くまで行くことはできない。
自分から己を見せようとする者は人からそれを明らかに知られることがなく、自分から己が正しいとする者もその良さが認めてもらえない。
また自分から誇る者はその業績を評価してもらえず、自分からその才能を誇る者も人の長として奉られることはない。
このように自らを押し通すやり方は無駄で余計な行いである。
そういったことはすべての人が嫌悪することである。だから有道者は決してそういった行動に身を置かないものである。
要するに自分の評価が70点だと思ったら、人は50点ぐらいにしか評価してないものですよ。だから70点の態度で人に接すれば嫌われることになりますよ。だから70点と思っても、人に接する時には50点の態度で接することが道をわきまえた人間のすることですよと言っているのです。と言ってもなかなかできないものですよ。自分も言葉は知っていてもあとで反省することが多いのです。特に自分の言っていることは正しいと自信を持って発言しても人に認めてもらえないことが多いのもこの世です。でも一歩へりくだって言えた時は認めてもらえることが多いのも事実です。自分もいい年をしてまだまだ道半ばです。
今日はここまで。いい話はまた来週。三連休はヨットにゴルフと羽を伸ばします。天気はよさそうなので疲れてなければヨット編・ゴルフ編が登場するかもしれません。それではまた。
今週は天気がいまいちです。もう稲の収穫は終わっている所が多いのでしょうけどこれからのところは大変ですね。
ところで今日のいい話は宮本武蔵の独行道からです。武蔵の五輪書はよく御存知と思いますが、独行道は短文で武蔵の死の直前に書かれたものとされています。「われ、事において後悔せず」と言うところがいろいろな人に引用されていますが、まずは全文を。
世々の道にそむくことなし
身に、たのしみを、たくまず
よろづに依估(えこ)の心なし
身をあさく思い、世をふかく思う
われ、事において後悔せず
善悪に他をねたむ心なし
いづれの道にも、わかれを悲しまず
れんぼの思ひに、寄るこころなし
わが身にとり、物を忌むことなし
私宅においてのぞむ心なし
一生のあいだ、よくしんおもわず
こころつねに道を離れず
身をすてても名利はすてず
神仏を尊んで、神仏を恃まず。
この武蔵の言葉は我々が日常犯しやすい過ちを戒めてくれる言葉ではないでしょうか。人生の処し方をいつも自戒することにより正しい道を歩んでいくことができると思います。へたな解釈はしませんのでもう一度読んでみてください。だれでもどこか一行気に入る所があるんじゃないでしょうか。僕は「われ、事において後悔せず」も好きですが、最後の「神仏を尊んで、神仏を恃まず」が好きです。神や仏を崇拝するけど、神や仏にやみくもにすがるようなことはしない。自分の道は自身の努力で切り開いていきたいと言う男らしい生き方を示しているのだと自分は思っています。
きょうはこれでおしまいです。最近非常に軽く書いてますけど、自分としては中味の濃い話で十分に咀嚼できてませんが、この世には味のある言葉を残した先人のいかに多いことか。僕達はもっと先人に学ぶことがいっぱいあると言うことを認識して、日々精進すべしですかね。
それではまた。
なかなかいい天気になりませんね。週末には天気がよくなってほしいものです。今日は10月4日投資の日です。ここ10年ぐらい投資の日の株価はあがっているのだそうですけど、あまりそうではないようです。株に投資して大金をつかんだ人の話はよく聞きますが、自分が投資を始めて丁度1年ぐらいたちますが、増えるどころか目減りしてます。やはり手に汗しないで儲かると言うのは体質に合わないのかもしれません。
ところで今日のいい話は安岡正篤先生が座右の銘にされていたと言う「六然」です。もともとは中国の崔銑(さいせん)という人が残した言葉と言われています。
自処超然(じしょちょうぜん)
処人藹然(しょじんあいぜん)
有事斬然(ゆうじざんぜん)
無事澄然(ぶじちょうぜん)
得意澹然(とくいたんぜん)
失意泰然(しついたいぜん)
自分自身は世俗にとらわれることなく超然と
人に接しては相手を心地よく楽しませ
何か事があればきびきびと動き
何も事がない時は水のように澄んだ気持ちでおり
得意の時ほど静かで安らかな気持ちでたんたんと事にあたり
失意の時にも泰然自若としていること
とかく我々凡人はこの逆となってしまいがちです。いつも自分に言い聞かせながら人生を生きることが人の道にあった生き方だと思います。でも人間ですから世俗に飲み込まれる時もあります。人につらくあたってしまうこともあります。事あればパニくることもあります。何もないと邪推が頭をよぎります。得意の時は有頂天になってしまいます。また逆に失意の時はオタオタすることもあります。これらは人間の持って生まれた感情かもしれません。こんな時六然を思い出して自分に言い聞かせることができるかどうか常に自己チェックの言葉として思い出してみましょう。僕もいたらない人間なのでいつも自分を戒めていなければならないけど、心の持ち方としてかくありたいと思います。なかなかその域に達しませんのでこんな年になっても修行中です。
きょうはここまでです。それではまた。
今日は朝から千葉の幕張で開催されているCEATECに行ってきました。Web2.0関係のセミナーを聞いて、展示をざーっと見てきました。日本でもやっとWeb2.0について本格的な議論がされるようになった感じです。日本におけるブログ人口は800万人だそうですが最近SNS人口が700万となり急激にその人口が増えているようです。年度末には逆転するかもしれません。確かに僕もブログを始めて10ヶ月になりますが、多分見てくれる人も限定されるであろうし、もう少しクローズドの方がコメントや意見交換とかメンバー同士の交流も進みそうな気がします。来年はブログからSNSに乗り換えてみようかなと思っていますが、これを読んでくれている方達がいっしょに移ってくれたらもっとそれぞれの顔がみえて面白いような気がします。
ところで今日のいい話はジョン・ウェズリーの詩で「君ができるかぎり」です。
Do all the good you can,
By all the means you can,
In all the ways you can,
In all the places you can,
At all the times you can,
To all the people you can,
As long as ever you can.
意味はもうおわかりだと思いますが、”君ができる限りの善を、君ができるかぎりの手段と方法で、君ができる限りの場所で、君ができる限りの人に、君ができる限り。”と言うことです。人は人生においていろいろな困難やトラブルに遭遇します。そして周りからああしろ、こうしろと言われて、何がなんだかわからなくなってしまうことが多いと思います。いろいろ他人は人の事なので自分ができないことでも平気で評論するものです。そんな時あまり人にとらわれずに、自分のできる精一杯のことを着実にやり続けることが最大の解決策になるのです。僕達はどうしても他人を意識しすぎて、自分のできないことをやろうとしたり、あきらめてしまったりしがちです。こんな時この詩を思い出してください。自分らしく自分のできる精一杯をやってダメならダメでしょうがないじゃありませんか。でも周りからみると自分のできる限りの取り組みをしている人の姿は一番かっこいいものです。どんなにみじめな気持ちででも自分のできるかぎりをやってみたら、いっぱい仲間達がよってきていっしょに解決してくれるものです。
仮にそうならなくても自分のできることを精一杯やり続けることはあなたが人間として生きた証明なのだから。何事でも同じことですが多分スポーツで考えるとわかりやすいことですが全力を出し切って戦ったあとは勝っても負けても気分が最高にいいじゃないですか。人生もそれと同じで自分の最善を尽くして生き抜くことが最高にかっこよくて最高に満足感が得られるものだと思います。
ウェズリーはイギリスの神父さんです。見方によっては宗教的かもしれませんが自分はいつも困難にあったとき、ダメかもしれないけど後悔しないために、自分の最善を尽くそうと心に言い聞かせてやってきたしこれからもそうありたいと思います。
今日はここまでです。おやすみなさい。
10月2日(月)雨
早いものでもう10月になってしまいました。昨日静岡の田舎で甥っ子の結婚式があって、行ってきました。いつも静岡の田舎には車で行くのですが、今回は酒も飲むつもりで新幹線で行ってきました。やっぱり楽ですね。いつも田舎では酒は一滴も飲めなかったので、一杯飲んで食ってきました。ただ帰りは雨の中を一時間に一本の御殿場線に乗って下土狩でおりて、タクシーで三島駅まで行ってやっと新幹線なのでめんどうと言えばめんどうです。ただ新幹線に乗ってしまえばあとは寝てるだけなので荷物があまりない時は車より楽です。
帰って来ると鳥取の友人から新米が15Kg届いてました。いつもスーパーの米なので新米なんか久しぶりなので期待してしまいます。早く今食べている米を終わらせて食べたいものです。
と言うわけで前置きがすごく長くなりましたが、今週はちょっといい話をしてみようと思います。第一回は青春についてです。僕らの年代になると遠い昔の話と思いがちですが、サムエル・ウルマンは「青春は人生のある期間を言うのではなく、心の様相を言うのだ」と言ってます。燃える情熱、安易を振り捨てる冒険心、たくましい意思、優れた創造力、子供のように求めて止まぬ探究心などの心の様相を言うのだと。とすると自分もまだまだ青春真っ盛りと言えるかもしれません。電力王、松永安左エ門氏が訳したと言われる詩の一節をどうぞ。
人は信念と共に若く 疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く 恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く 失望と共に老い朽ちる。
物理的な年齢は高くても、いつも心は青春でありたいものです。そういえば仕事をしているお年よりは、していない人より若く見えます。神に召されるその時までずっと心は青春でありたい。だからいつも夢を追いかけるのです。
今日はこれでおしまいです。それではまた。
さていよいよ「大学」も最終回になりました。早く終えてしまおうと思いつつここまで来てしまいました。どうしても一度始めてしまうととりあえずやれるところまできちっとやろうとしてしまうバカな性格なのでしかたないですね。早く見切りをつける現代人が多い中でみるとどんくさいやつかもしれません。前置きはこのぐらいで早速伝九章、伝十章にはいりましょう。
(伝九章)
所謂国を治むるには必ず先ずその家を斉うとは、その家教うべからずして、能く人を教うる者はこれ無し。故に君子は家を出でずして、教えを国に成す。孝は君に事(つか)うる所以なり。弟は長に事うる所以なり。慈は衆を使う所以なり。
康誥に曰く、赤子を保つがごとしと。心誠にして求むれば、中らずと雖も遠からず。・・・・・(中略)・・・・・・・・・これを一言事を僨(やぶ)り、一人国を定むと謂う。
尭舜天下を帥(ひき)いるに仁をもってして民これに従う。桀紂天下を帥(ひき)いるに暴をもってして民これに従う。その令する所その好む所に反して民従わず。・・・・・(中略)・・・・・
詩に曰く、桃の夭々たる、その葉秦々たり。・・・・・(中略)・・・・・
(解釈)
国を治めるにはまずその家をととのうとは自分の我が家さえ教うることができないのに、その国民を教うることができるわけがない。故に君子が国を治めようとするにはただ己の身をもって家を教うれば自然に一国の模範となって、国民はその徳に感化されるのである。親に孝行する心をもって君に仕えればすなわち忠、兄に対する弟の心をもって年上の者に使えればすなわち順、子弟を慈しむ心をもって衆人を使えばすなわち恵である。この忠・順・恵の三つは君子が身を修めて家を教うる元になる心であるが、国民が君に仕え、長に仕え、衆を使うのも同じことなので、君子は家を出ることなく、その教えを国に広めることができるのである。
書経、周書の康誥に、人君が国民を愛するとは母親が赤ん坊を大切にするようにしなさいとある。母親が心から赤ん坊が何を欲しているかを求めようとすれば、あたらずといえども遠からずでだいたい何を求めているかわかるものだ。・・・・・
たった一言で物事をダメにできるし、たった一人の優れた人物で国は安定されるのである。
中国古代の聖人である唐堯(とうぎょう)や虞舜(ぐしゅん)は天下を治めるのに仁をもってしたので、万民皆従ったのである。一方中国古代の暴君である夏桀(かけつ)や殷紂(いんちゅう)はは暴虐をもって天下を治めたので民は皆これに従い互いに相凌ぎ相欺いたのである。すなわち君主の命令することが、君主の好んでいること反していたら国民はその命令には従わないものである。勉強嫌いのお母さんが子供に”勉強しら”と言っても子供は従わないものですとおなじことですね。
詩経に・・・・・・・・あとは省略します。要は家をちゃんとできれば国も治まるということの解釈が伝九章です。
(伝十章)
所謂天下を平らかにするはその国を治むるに在りとは上老を老として民孝に興り、上長を長として民弟に興り、上孤を恤みて民倍かず。ここをもって君子契矩の道あるなり。
上に悪む所、もって下を使うなかれ。・・・・中略・・・・・
詩に曰く、楽しき君子は民の父母と。・・・・略・・・・
この故に君子先ず徳を慎む。徳あればこれ人あり。人あればこれ土あり。土あればこれ財あり。財あればこれ用あり。徳は本なり。財は末なり。・・・・(中略)・・・・
この故に言悖って出づる者は、亦悖って入る。貨悖って入る者は、亦悖って出づ。
・・・・・(中略)・・・・・・・・
仁者は財を以って身を発し、不仁者は身を以って財を発す。未だ上仁を好みて下義を好まざる者あらざるなり。未だ義を好みてその事終わらざる者あらざるなり。未だ府庫の財その財に非ざる者あらざるなり。・・・・・
これを国、利をもって利と為さずして、義をもって利と為すを謂う。・・・・・・・
(解釈)
天下を大平の世にするはその国を治めるにあると言うのは、人君が老人に仕える心をもって老人を尊べば国民は皆これにならいその父母に孝行するものである。人君が長者に仕える心をもって敬えば、国民はその兄には弟として振舞うものである。人君が幼くして親を亡くした孤児を憐れめば国民は皆これに倣いそむくことはない。このように上に立つものに倣って下の者が行うものである。そこで君子は己を推して人を度(はか)る契矩の道というものがあるのである。
上司が自分を使う時にいやなところがあれば、自分が部下を使う時にそれと同じ事をしてはならない。・・・・
詩経の小雅、南山有台の編に、徳があって楽しむべき君子は国民の父母であると。・・・・
それ故君子はまず第一に徳を慎む。徳があれば人が集まってくる。人が集まってくれば、自然とその領土は広がる。領土が広がれば当然租税も多くなるから財が増える。財が増えて国のためにそれを使えば国は豊かになる。要するに徳は本であり、財は末である。・・・・
それ故君主が道理に外れた言葉を発すれば、国民からも道理にはずれた言葉が帰ってくるものである。道理に外れたやり方で稼いだお金は身につかず出て行くものである。
・・・・・・・・・・
思いやりのある君主は財があればそれを国民のために使うことで自身を奮い立たせ、思いやりのない君主は自身の欲望のままに財をかき集めることに使う。未だかって君主が思いやり慈しむ政治を好んでいるのに、国民が正義の行いをしないということはない。未だかって正義の行いを好んでして、物事を完成させられないと言うことはない。すなわち正しい目的の為の行為は必ず最後には成功するものである。そして正義の行為により成功して得られた財は人の役に立たないと言うことはないのである。・・・・・
君主は私的な利益を利益とするのではなく、国民の正しさこそを利益とするのである。
・・・・・
以上伝の十章の解釈です。
九章、十章はいろいろな例をだして解釈をしており、結構長い文です。とりあえずちょっといいところだけを抜粋して書きましたけど、時間のある方は一度全部目を通してみてください。国を企業と置き換えて解釈してみるとビジネスにも通用することが多いのではないでしょうか。経営者や幹部の立場の方には一度読んでほしいと僕は思いました。と言っても今はそんな時代ではないと笑われそうですが、僕はビジネスにも正しいやり方があると思っているので敢えて書きました。とかく結果さえよければ全てよしなどと言う人もいますが、物事の”本”と”末”は転倒してはいけないことだと自分は思います。
どうも長いお付き合いありがとうございました。これにて「大学」を読むを終わりにします。
明日からは3連休です。ブログもお休みさせていただきます。
それではおやすみなさい。