いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

白鳥事件の容疑者たちのその後;後藤篤志、『亡命者』、あるいは北極熊の行方

2015年03月08日 16時30分03秒 | 日本事情

■先週末は、小谷野敦、『江藤淳と大江健三郎』と後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』を読んだ。偶然にも、両者は筑摩書房からの刊行であ る。前者は、発売されたから読んだ(愚記事; 『江藤と大江』来た)。後者は、2/21のブログで白鳥事件に言及したので、白鳥事件の全容と今日まだ終わらない「歴史」に興味があり、読ん だ。

両者は関係ないが、おいらの主観的なある視点で興味があった。それは Occupied Japan 問題だ。小谷野敦は『江藤淳と大江健三郎』において、1980年代に入り江藤が始めた占領下でのGHQによる検閲研究を評価していない。福田恒存、猪木正道 などの江藤批判を引用して、憲法草起や検閲などというはもうわかり切ったことではないか!という認識に小谷野敦は賛意を示しているようだ。

おいらが、江藤や大江に関心を持つのは彼らが敗戦と占領の経験を受けて文筆活動をしている/していたことだ[0]。江藤は占領へのこだわりが強い。その点がおいらの好みなのだ。

 僕は、初期の大江さんの文学が何であったかについて夙に書いたつもりです。あれは敗戦とか占領というような経験を、非常にユニークな形で対象化して見せてくれた文学で、『人間の羊』や、『死者の奢り』にしても、そういうものだったと思いますけれどもね。 (江藤淳、『離脱と回帰と』)

 戦後の《その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題が Occupied Japan 問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである》という、先生のもっとも苦い言葉にふれる 時、たちまちぼくは、自分の核心まで浸蝕せずにはおかぬ勢いでせまってくる、強い酸をあびせかけられたことを自覚するのです。
 ぼくはまさに Occupied Japan において、戦後民主主義にとびついてゆく、という育ち方をした人間なのですから。
 ぼくはこの問題を今後とも考えつづけてゆくでしょう。 (大江健三郎、『鯨の死滅する日』)

[0] おいらが幼心に見てその映像と音声がビデオテープのように記憶に残っているのは、唐十郎の『佐川君からの手紙』が芥川賞を受けたときの(芥川賞の選考委員の)大江の評のテレビ報道である。「白人女性を食べるというイメージ」、これが"%&$"(正確には忘れたが、それが注目すべき点である、の要旨)!と大江が言っていた記憶がおいらにはある。誤記憶か!? 

なぜおいらが占領にこだわる江藤の著作が好きかというと、「占領時代の憲法草起や検閲などということはもうわかり切ったことだ!」という暗然・隠然とした雰 囲気、すなわち、「占領時代の憲法草起や検閲などということはもうわかり切ったことだ!」=もうわかり切ったことなのだからそれ以上調べる必要なぞな い!=それに触れるな!という「空気」を、敗戦後20年あまり経ってうまれたおいらは、なんとなく子供の頃から悟りはじめたからだ。

確かに、現行のマッカーサー憲法は占領軍による命令と草起でなされたと1980年代のおいらが見た教科書の副読本には書いてあった。しかし、そこには、「憲法というのは内容が問題であり、誰が起草したのかというのは問題ではありません」と書いてあった。つまり、憲法制定過程に立ち入ることを馬鹿げたことだと示唆していた。

でもそういう「もうわかり切ったことなのだからそれ以上調べる必要なぞな い!」という禁止は逆に興味をそそるのだ。

上記、大江健三郎、『鯨の死滅する日』で「日本の問題が 「Occupied Japan 問題である」といった「先生」とは林達夫である。林達夫は、 「Occupied Japan 問題である」は、1950年8月に「新しき幕明き」という文章にある。その冒頭はこうだ;

 戦後五年にしてようやく我々の政治の化けの皮もはげかかって来たようであるが、例によってそれが正体をあらわしたからやっと幻滅を感じそれに食ってかかり始めた人々のあることは滑稽である。

これは、言明していないが、1950年春に占領軍マッカーサー将軍の命令で共産党員を公職などから追放した(レッドパージ)を受けての状況を林達夫が嗤っているのである。共産党は占領軍に解放されて出獄した。ある時期、共産党はGHQと盟友関係にあった。 しかし、林達夫は言う;

 戦後、人々が民主主義政治だといって大さわぎしていることに、私は少しも同調することができなかった。

その理由は日本は戦勝国の占領下にあるのだから政治的自由などないのではないかという指摘である。こうかいてある;

 その時から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと適中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題が Occupied Japan 問題であるという一番明瞭な、一番肝腎な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。この Occpied 抜きの Japan 論議ほど間の抜けた、ふざけたものはない。「奴隷の言葉」を使っていたと称する連中までが、そういう議論の仲間入りをしているのだからあきれる。

そして、林達夫は予言する;

 政治の化けの皮がはげかかってから、それを追及し、それに悲憤慷慨することはたやすい。定めし、幕末志士の現代廉価版が、これからこの国土に輩出することであろう。

■ 白鳥事件

 果たして、林達夫の予言は当たり、治安組織の構成員(警察)を暗殺する終戦直後の「幕末志士の現代廉価版」が出現した。日本共産党、中核自衛隊として。

 敗戦後5年、サンフランシスコ講和条約前の1951年1月21日に札幌の南6条西16丁目の路上で自転車で走行中の札幌市警の白鳥一雄警部が射殺された。札幌市警の白鳥一雄警部は戦前戦中は特高警察であり、ハルピン学院に派遣(留学)されていたこともあるとされる。ここで、ハルピン学院とは、1940年以後満洲国所管の国立大学。日露間の貿易を担う人材養成を標榜した。著名な卒業生として、外交官の杉原千畝、ロシア文学者の工藤精一郎がいるwiki)。ハルピン学院は、上述のとおりで、スパイ・公安警察養成所ではないようである。射殺される直前は、占領軍相手の売春宿(いわゆるパンパン屋;当然当時は売春は合法である)の取り締まり、そして共産党の取り締まりの実務を行っていた。当時は占領下であるので占領当局との公然、非公然の情報取引を行っていたらしい。さらには、白鳥警部は私的に情報収集の民間人(ヤクザ、右翼)の協力を得てしたとの伝聞もある。

共産党の取り締まりでは、共産党側に白鳥警部は周知、有名で、射殺前から脅迫状が多数送られていた。

すなわち、朝鮮戦争が始まり、中国やソ連の指導部は日本の共産主義者に日本の米軍に打撃を与えることを期待した。一方、日本共産党は占領軍に追放されたので反撥、反抗した。共産主義を根拠にするというより、日本という国家主権を根拠に占領軍に対抗するようになった。この点が「反米愛国」主義とされる原因である。

占領時、札幌には" 北 極 熊 " (米国陸軍第11歩兵連隊)[愚記事; 札幌に"北極熊"がいた頃;1948-1950 ]が駐屯していた[愚記事; キャンプ・クロフォード ]。なお、白鳥警部は予算を自ら作るため米軍物資の横流しに関与していたらしいという話がある。そうであるならば、" 北 極 熊 "から横流ししてもらったことになる。

(なお、その" 北 極 熊 " も白鳥事件が起きた時には札幌に居なかった。なぜなら、朝鮮戦争が勃発し、朝鮮半島に出動したのだ。札幌には補充の別の部隊が来た。)

中ソの共産党幹部は夢想したのだ。日本の共産主義者の活動により、米軍占領地域で政情不安となり、あわよくば、赤色革命が起きればよいと。

日本共産党の中核自衛隊は、米軍に直接武力行使をすることはせず、日本共産党の取り締まりを図る白鳥警部を狙ったのだ。

例えば、白鳥警部は丸井さん([1])で開催の丸木位里の原爆絵図の展示会を中止させた。背後には占領軍の指示があったのであろう。

[1]丸井百貨店のこと; 札幌人はこういう呼ぶのです。

白鳥事件は日本共産党の組織的犯罪とされ、逮捕状が出された。

警察・検察の見立ては、事件の実行は日本共産党の中核自衛隊によりなされた。首謀者は村上国治。警察・検察の見立ての根拠は、高安知彦、佐藤直道、追平雍嘉の自供である。彼らは転向した。

そして、10人がこの事件の結果、悲劇の中国亡命を強いられた。

首謀者とされる村上国治は終生犯行を否認。最高裁で有罪が確定している。 事件に関係する人物は下記表。後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』の情報をまとめた;

後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』での主人公たちはやはり、高安知彦、村上国治、そして鶴田倫也の3人だろう。特に、鶴田倫也の軌跡は長く、印象深い。なにより悲しいのが、村上国治。後藤篤志がいう「組織を守るために永遠に嘘をつく者」という人生を強いられたのだ。出獄後はアルコールに逃避し、詳しい原因が不明な出火で焼死する。高安知彦は存命。高安ら「転向組」の自供で村上国治は有罪となるのだが、出獄後このふたりが会うというのがこの本のひとつの山。白鳥事件の「真実」を暗示している。出獄後このふたりが会ったのが後述の旧 camp Crawford 跡地らしいことが、後藤篤志、『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』には書かれている。この点に気づいたのはおいらぐらいなものではないか?と、ずがずさん=自画自賛している。

白鳥事件は村上国治は一貫して冤罪を主張。事実、唯一の物証とされた弾丸の証拠性がないばかりか、捏造の可能性が高い。その白鳥事件と再審のことも後藤篤志、『亡命者』には、この事件になじみのないものにもわかるように、書かれている。

そして、日本共産党の組織防衛のため中国に行かされた10人の内7人が戦術を以って逐次帰国する話もこの本を読ませる部分。

 最後に射殺に深く関わったとされる3人(鶴田、佐藤、宍戸)の人生。復員兵であった年上の佐藤と宍戸を鶴田は八宝山の墓(中国共産党の革命家用墓)に埋葬する。後藤篤志、『亡命者』には実行の要因として強調明示されていないが、白鳥事件の実行メンバーふたりは軍歴がある人、実際に戦闘経験のある人物たちなのだ。

つまりは、旧日帝軍人が、日本共産党・中核自衛隊という media (実現手段・方法)を通じて、米国占領軍のお先棒を担ぐ「日本人」警察を殺害[1]したのである。

    ⇒そして、そのうち二人は、中国共産党の革命烈士しか埋葬されることがない八宝山革命公墓に眠ることになる。

[1] 歴史上有名人による警察官・おまわりさん殺害事件

    ↓ 50年後、今の日本人には全く知られていないこの二人は、先覚者として、有名になるかもしれない。当時、「おまわりさん」をピストルで殺した無名青年が、今の日本で有名人であるように...

2012年まで生きた鶴田は唐沢明と名乗り北京外国大学で日本語を教える語学教師として長らく北京で過ごした、とされる。つまりは、大躍進、文革、改革開放時代、高度経済成長と中国、北京での人生を完走した。そして、その唐沢明は自分が鶴田倫也であることの物証が残らないように、八宝山革命公墓ではなく、海に散骨したのだという。

すなわち、この唐沢明=鶴田倫也という報告は、唐沢明=鶴田倫也なる人物と話した日本人や唐の家族の証言に基づくものであり、物証がないのである。

証言のみによる立証。やはり、白鳥事件らしいではないか!

●参考リンク

白鳥事件と北大-高安知彦氏に聞く
シンポジウム・歴史としての白鳥事件

北極熊のその後

後世に生まれた者の特権はより広い時間的視野で過去の出来事を見直すことができることである。そして、その後におきた出来事とその事件を相対的、総体的に比較して、その事件の意義や意味を考察できることが後世に生まれた者の特権である。

鶴田倫也は2012年まで生きたので、9.11、アフガン戦争、イラク戦争を知って死んだことになる。

2007年、当時の米国大統領ジョージ・ブッシュは言った;

ある晴れた朝、何千人もの米国人が奇襲で殺され、世界規模の戦争へと駆り立てられた。その敵は自由を嫌い、米国や西欧諸国への怒りを心に抱き、大量殺人を生み出す自爆攻撃に走った。   

アルカイダや9・11テロではない。パールハーバーを攻撃した1940年代の大日本帝国の軍隊の話だ。最終的に米国は勝者となった。極東の戦争とテロとの戦いには多くの差異があるが、核心にはイデオロギーをめぐる争いがある。   

日本の軍国主義者、朝鮮やベトナムの共産主義者は、人類のあり方への無慈悲な考えに突き動かされていた。イデオロギーを他者に強いるのを防ごうと立ちはだかった米国民を殺害した」 (参考愚記事;  アルカイーダ→ポチ・相転移  )

鶴田倫也ら日本共産党・中核自衛隊が敵とした米軍、特に札幌に居た米国陸軍第11歩兵連隊の歴史的活躍は下記の通りであり、日本・札幌を離れた後、最近のアフガン、イラクまで行っている。 まさに、米国の" 「自由」十字軍 "である。

            
wikipedia 31st Infantry Regiment (United States)    http://www.31stinfantry.org/new-31st-infantry-association/