いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

習近平の「近平」の由来を知る; あるいは、産経、朝日 「支那通」にみる出自

2014年02月16日 18時37分53秒 | 中国出張/遊興/中国事情

日没する処の天子さまからみて、おいらは、「腹がいっぱいになって暇になった外国人」である。腹はいっぱいではあるが、出世しそこなって所を得なかったので暇だ。だから、隣の国の「皇帝」さまの評伝・矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』を読んだ。さらに、46年前の文化大革命の勃発直後の取材記録・柴田穗、『報道されなかった北京 =私は追放された=』も読んだ。両者はサンケイ新聞社-産経新聞社から北京に派遣されていた/いる記者である。


図1

図1の『報道されなかった北京 =私は追放された=』は裸本。表紙付はとても高価で買えなかった。表紙をネットで採取。こんな表紙。

 矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』のAmazonの書評には、こうある;

著者は、天津市に「残留日本人」二世として生まれ、15歳で帰国し、慶応大学卒業後、1998~2002年にかけて中国社会科学院日本研究所で特別研究員 として学んだ。著者が、同年代の中国人と夜を徹して議論できる素地は、多分、この経歴にあるだろう。現在は、産経新聞北京特派員である。著者は、果たし て、文革報道で伝説の特派員となった「柴田穂」になれるのか?著者は、身内に「中国」を微妙に感じているように見える。それは、今後の著者の魅力ともアキ レス腱ともなりうるものである。出典 by  閑居人 さん (太字強調 いか@)

 一方、中国研究家の矢吹晋さんからは、「著者がここまで取材できるのは、中国育ちの語学力を駆使してのことであろう。これは得難い条件だ。」と評されている。  矢吹 晋氏による書評

 この矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』のまとめは上記矢吹氏の書評、というよりまとめに書いてある。

 ▼ ひとつおいらにとって面白かったのが、習近平の近平の名前の由来;

 1952年9月、毛沢東は習仲勲を北京に呼び、中央宣伝部長に任命した。習近平は一家が北京に移った直後に生まれたため、「北京が近くなった」という意味で「近平」と名付けられた。1949年までは北京は「北平」と呼ばれていた。 (矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』、第7章)

 おいらには「北平」⇒「北京」問題が面白かったのだが、そのことの展開の前に、習近平の父親の習仲勲について。習仲勲についてはwikipediaにも書いてある。習仲勲は15歳の時から中国共産党に入った古参メンバーではあるが、中共古参メンバーの御多分に漏れず、文革期には受難する。受難の理由は劉少奇に近かったということより、そもそも文革前にしくじったらしい。宣伝担当なのに不適切な小説の出版を許したという罪である (1962年9月の第8期10中全会で反党小説劉志丹事件が持ち上がり、康生を主任とする審査委員会が発足、半年後に反党集団として党内外の全職務を解任された) 。

文革中は、16年間も拘束される。「遊街」される習仲勲の画像が残っている↓

 習仲勲の受難


 http://www.flickr.com/photos/prchistory/4380598751/

 そういう父を持つ習近平は15歳から1969年から7年間陝西省延川県に下放され、農夫をやっていた。すなわち、15歳から7年間、習近平は教育を受けていないのである。人間が一番知的活動に勉め強いられる時期に、おそらく、知的活動を行っていない。別に、おいらは習近平を貶めたいわけでもない。"皇帝には基礎学力が必要であるか?"という課題は解決されていないからだ。例えば、「文盲」=読み書きができなかった皇帝の話は以前にした(愚記事; 文盲の万能人、アクバル大帝)。なにより、現支那の皇帝には知的能力なぞ超えた属性が期待されているからだ。べんきょーなぞできるより、大切なことがあるのだ。

■ 励ましあう二人

しかし、いずれにしても、当初の貴族からその相続者に貴族の称号を伝えることということには、ある種の矛盾がある。その点では中国人のほうが論理的であって、継承の順序を逆にする。つまり、息子を父が貴族とするのではなくて、息子が貴族権を得ることによって、それを祖先たちにまでさかのぼらせ、かれらの賤しい家系をかれの努力によって名門にするのである。 (オルテガ、『大衆の反逆』)

太子党というのは当事者たちが自覚的に組織を維持している集団ではないらしい。太子党と呼ばれるに値する人間は数万人いるらしい。定義は古参の共産党メンバーの子弟だ。

習近平登場前に習仲勲はそう有名ではなかったと思われる。それは薄一波 - 薄熙来親子とは違う。薄一波は、薄熙来が有名になる前に、文化大革命の歴史の本に出てくる。一方、習仲勲の名は見たことがない。例えば、2001年に出版された『中国高級幹部人脈・経歴字典』には、習仲勲・習近平ともに載っていない。薄熙来は載っていないが、薄一波は載っている。

  
                         薄一波の受難

まさに、オルテガがいうように、習近平は息子が貴族権を得ることによって、それを祖先たちにまでさかのぼらせ、かれの努力によって名門にするのであるのだ。上記のよう習仲勲のに文化大革命で市中引き回しになっている歴史的事実が証拠として残っているが、おそらくこういう中国共産党古参メンバーの文化大革命での市中引き回しの写真は無数にあって、その後子孫が偉くなったら光が当てられるのだ。

・受難者の太子たちも色々;

    
 皇帝@中南海     犯罪者@やがて秦城監獄

● なぜ、習近平が中国共産党の主席になったかといえば、それは中国共産党を保持しようとするに違いないと前世代から認められたからだ。つまり、経済改革ひいては政治改革で中国共産党が解体する事態も引き起こすかもしれない改革派にだけは主席になってほしくないのだ。当初、次の中国の最高指導者と下馬評が強かった李克強が主席になれなかったのは、保守派が「李克強は中国のゴルバチョフになる」と宣伝したからだと、矢板明夫、『習近平 共産中国最弱の帝王』にある。この習近平と李克強の相克・権力闘争は、人間社会一般論として、aristocracy(世襲主義)とmeritcracy(能力主義)の相克としてみれるので、興味深い。李克強は庶民出身で、大変な秀才として有名である。おそらく、基礎学力のない習近平とは人間社会における型=タイプがことなる。

なので、突然話は飛ぶようだが、習近平はそのタイプからみると、我らが安倍晋三さんと極めて似ているのだ。

習近平さんの任務は北京の天安門広場から毛沢東の肖像が撤去されることを絶対さけることであり、安倍晋三さんの任務は実力部隊としての皇軍の魂の根拠の靖国神社の保全と何より皇室の護持だ。 おそらくふたりは、建国の経緯を重視しているのだろう。銃が政権を生む!革命とクーデターが政府をつくる!って(関連愚記事群)。憲法なんて足枷になってうざったい。むしろ立憲の根拠となる思想が重要だと考えているのだ。憲法をどうまわすかは、只の秀才ちゃん(meritocracisim perosns)がやる仕事で、皇帝さまの仕事は立憲主義の源泉の思想の保全が重要と考えているのだ。

蛇足ながら、日本の李克強は誰か?というと自ら恃むところ頗る篤く、最後には自民党も裏切った舛添要一あたりか。

とまれ、やはり、ふたりは近いところにいるのだ。


愚記事; 励ましあうふたり

■ 産経新聞社、朝日新聞社の 「支那通」にみる出自

伝説の文革報道をした柴田穗さんは1930年に東京に生まれたが、1939-1947年に中国在住。17歳で「引き揚げ」=帰国したらしい。

一方、矢板明夫さんは1972年天津生まれ。1988年、15歳で「引き揚げ」=来日したらしい。「残留孤児2世」とあるが、意味不明。親が残留孤児ということなんだろう。孤児が1世―2世と続くのは論理的でない。なお、父親は中国人との未確認情報もある。もしそうでるなら、余計「残留孤児2世」は意味不明。

で、話しがそれた元=おいらには「北平」⇒「北京」問題が面白かったに戻る。

wikipediaにこういう記述を見つけた。ある人物に関する記述だ;

ここで、中華民国とは、中華民国臨時政府のこと(wiki)。

今の北京は、日本の敗戦時(1945)まで北京と称し(関連愚記事; 北京の玉音放送)、1945-1949が北平。その間、4年。

そして、中国人民共和国建国で、再び、北京となったのだ。

つまり、習近平の近平の平はわずか4年間を反映しているのだ。

さて、上のwikipediaの経歴の人は、「親米保守の経済記者で、CIA協力者リストに名前が上がっている」とwikipediaに書かれ、「終生変わらないはずの親米派」と評される(ロナルド・ドーア)朝日新聞の船橋洋一さんである。北京生まれなのだ。wikipedia [橋洋]

そして、彼はその商売も中国屋さんが出発点らしい。

昨日注文した;


Amazon  内部(neibu)―ある中国報告


―  いい本なので出品しています。 -

● まとめ: 1. 本日紹介の 「支那通」3人は、万が一日本政府の村山談話の表現に従うのであれば、「植民地支配と侵略」の当事者の子孫である。

          
元日帝侵略子供  日帝侵略者子孫   元日帝侵略赤ちゃん@朝日新聞=三つ子の魂百までも

2.腹がいっぱいばかりではなく、出世しそこなって所を得なかったので暇なおいらは、暖衣飽食状況下での下放である。ありがとう!ぬっぽん。