10月16日
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10月19日
10月20日
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戦争に負けて外交に勝つことはできる、という希代の大法螺を吹いて、自国の自衛権を放棄した憲法を政府責任者として制定した、ぬっぽん近代最大の いか@さま 大宰相の 吉田茂 さんは40年前の今日、鬼籍入り。
特別展示 吉田茂 没40年。
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タロウちゃんは、デリーでも笑っていた。 そんなに楽しいのか?
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パラサイトこそ「芸風」!
「竹内」はどうした?
シャージャハナバード猫。
シャージャハナバードとは、このオールドデリーのムガル朝時代の呼び名。バイクのナンバーの「DL」はDelhi=デリーを示す。
おいらにとって、インド訪問4回目にして、3匹目の猫。
この猫はペルシア猫にあらず。 なぜ、あえてペルシアに言及するか? それは、ムガル帝・シャージャハナバードはペルシア系イスラム文明の影響圏なりし所以。
すべてのぬっぽん猫、そして地球上のすべての家猫は、その縁起をリビヤ山猫に求むるところが現代の遺伝子生物学の成果なり。 つまりは、少なからずのぬっぽん猫の先祖はこのデリーにわらじを脱いでしばし休んだのに、かの列島を目指したと空想することこそ愉快なり・
結果的にイスラムの年に数(一?)度のお祭りに大当たりのこの日のデリー探索目的は、オールドデリーにムガール帝国の残影を探し、画像を取得しようというもの。
オールドデリーはムガール帝国時代、城壁に囲まれた地域であって、東端にお城のラールキラー、中心にイスラムモスク、ジャマーーマスジッドがある。
当時、ムガール帝国"支配層"の言語はウルドゥー語(宮廷語はペルシア語)。現在この「帝国ウルドゥー語」を継承するインド人はデリーにはほとんどいない。理由は、1947年のインド・パキスタン分離の際、イスラム色の強い旧ムガール帝国支配層・旧貴族はパキスタンへ行ったからである。いいかえれば、現在この「帝国ウルドゥー語」を継承するインド人はカラチにいるそうだ。ちなみに現在この旧ムガール貴族居住地域に住んでいるのは、1947年のインド・パキスタン分離の際に逆にパキスタン領になったパンジャブ地方からデリーに追われたヒンドウー教徒「難民」。つまりは、貴族居住地域から「難民キャンプ」となったのがオールドデリー。
これは、現在北京に清朝の文明の継承者が集団で存続していないことに匹敵するのかもしれない。もちろん、現在東京でちょんまげした徳川家臣が集団で存続しているわけでもないが。ただし、現在の日本人が江戸時代の旗本と口語は全く通じると思われる。江戸時代のさむらいの口語がいかに今と変わらないかは、諭吉の後述筆記本『福翁自伝』を見よ。そして、文語の『学問のすすめ』と対比して、驚け。これは、現代のデリーっ子が旧帝国時代の貴族と全く口語交流(oral communication)できないにちがいない事態とはとても違うだろう。 ただし、北京っ子は、マンダリンで清朝宮廷官僚と話ができるのか。
この日、まずはトルクマン門にオートリキシャで乗りつけ、地図なしで、つまりはあっても無意味なので、オールドデリー深部へずしずし探索。
たぶんウルドゥー語の看板を発見。
細工文様壁の家屋発見。