いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

新しい街でもぶどう記録;第422週

2022年12月17日 18時29分47秒 | 草花野菜

▲ 今週のみけちゃん
▼ 新しい街でもぶどう記録;第422週

■ 今週の武相境斜面

■ 今週の草木花実

■ 今週の黄帽の人たち

■ 今週の東京

銀杏がまだ残っていた

■ 今週の食糧

中村食糧 web site

「食料」と「食料」の違い;

「食料」は「食用にする物。食べ物」(大辞泉)。「食料」は「食料とする物。(中略)特に、米・麦などの主食物をさす」(同)。食料は食べ物全体を指すので「食料品」「生鮮食料」はこちらを使います。食料自給率も農林水産省の表記は「料」です。一方、小麦や米を中心とした場合は「食糧援助」「食糧危機」と表記。日本の戦後の「食糧難」、現在は廃止された「食糧管理制度」も「糧」を使います。ソース

■ 今週の更地

カレッタ汐留の47階から見た築地市場跡地。

■ 今週の古書店

酒井古書店。新書と文庫の専門店。 店のweb site

■ 今週の購書

上記の「酒井古書店」で購入。下の6冊が100円均一。上の4冊が450-600円。

■ 今週のタルト

むさしの森 Diner ムスブ田町店 渋皮栗のモンブランタルト

オリジナルカスタードクリーム・バナナ・マロンホイップ・キャラメルポップコーン・ワッフルチップ・渋皮栗で仕上げたタルトにキャラメルソース

■ 今週の仕上げ度

落ち葉を掃除しているおじさんの右側が、掃除が済んだ場所。とても、きれい。

■ 今週の「変」

■ 今週のわけあり

家庭用りんご 36玉、2450円。青森県産。 桜庭りんご農園

■ 今週の新刊購入

 
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笠井潔と絓秀実の対談本。この対談を実現させたのが、外山恒一。1970年生まれの外山はふたりの著作群に影響を受けて自分の思考を進化させたとのこと。外山と絓秀実は最近対談を載せた本も出ているので知っていたが、元来、外山は「笠井潔主義者」であったとのこと。この「1968年革命」と絓が呼ぶ政治的激動での活動家。ただし、対称的なところもある。笠井潔は東京生まれ、横浜育ち。高1で学校を辞めて、活動家になった。従って1965年には活動していた。全共闘世代で立川に行っていた人がいると初めて知った。そして、笠井は党派に所属。つまり、セクト活動家。かつ指導的立場。一方、絓は地方出身で左翼的状況はゼロ。高卒後上京、浪人して1969年に学習院大学入学。総員8人の学習院大全共闘の活動家。ノンセクトの活動家。

外山恒一がこの二人の受容のいきさつを書いているので、おいらの例をメモする。おいらが、笠井潔と絓秀実を知ったのは同時期で、1984年頃。下記雑誌を古本屋で買った;

この時、「マルクス葬送派」としての笠井潔を知った。何より、太田龍を知った。『対論 1968』で絓秀実は、太田龍を「ドラゴン」と呼称していた。界隈ではこう呼ぶのか、と思った。笠井を知ってすぐに『テロルの現象学』(1984年刊)を読んだ。この本は今に至るまで全部をよく読めているとはいえないのだが、現在のおいらの考えの基礎となっている/囚われている。すなわち、人間の考えというのはその命題そのものよりもその命題を抱くことになる当人のルサンチマン・あるいは自己保存の目的により発生する。しばしば、その命題は欺瞞的なものである。この考えで、例えば、次のような考えをおいらは持った。欺瞞の典型例が、戦後の日本人の「平和」。これは戦時中に米軍により虫けらのように焼き殺されていた日本人が、もうこれ以上ジェノサイドをされたくないために掲げる命題である。端的にいって、「奴隷」の平和。
 一方、この頃読んだのが、『保守反動に学ぶ本』(1985年刊)[関連愚記事]。絓の単著は専門的文藝評論しか出ていなかった頃。絓がこの『保守反動に学ぶ本』の編集者であったと思われる。対談者としても登場し、縦横無尽に語っている。

今手許にある笠井潔と絓秀実の本。これら以外に笠井の『国家民営化論』があるが、梱包中。

▼ 「あえて」の絓秀実

笠井潔は連合赤軍事件(仲間同士のリンチ、殺し合い)に衝撃を受けて、党派活動、左翼活動を辞めて、『テロルの現象学』を書いた。脱左翼した。さらに、マルクス主義批判を展開した。一方、絓秀実は、脱左翼しなかった。少し前の云い方をすれば、「あえて」、全共闘運動を勝利の運動と評価して、喧伝し続けた。その成果が、上の画像の1968シリーズだ。このことについて、説明している。

 ショックだった、ショックだったと言い合いながら、「なぜ運動をやめたんですか?」と訊かれたら、”連赤ショック”と”内ゲバ”というのがニ大定番だもんね。だからオレはむしろ、そんなことにはショックを受けなかった、ということにしようと思って(笑)、やってきたところもある。

でも、なぜ、ショックを受けなかったについては、説明していない。さらに、最近の見解、すなわちリンチでの死というのは、「企業のセミナーでの”しごき”みたいなもの」との

見解は、ちょっと、おいらには理解できない。

▼ 「反米」という禁忌

絓秀実で気になっていたことは、「反米」を忌避することである。この理由がわからなかった。この「反米」について、この本で唯一、外山恒一ではなく、編集者が質問して、対談が進行していく;

【編集者】60年安保って要はアメリカとの問題じゃないですか。そこから、”戦後民主主義批判”が出てくるというのは、アメリカ的な民主主義への批判のニュアンスもあったんじゃないですか?

 "反米"的な? しかし、"反米"というのはむしろ日共がそうなんで・・・・新左翼にはあんまりなかったんじゃないかなあ。

笠井 "反米"の意識は希薄でしたよ。ベトナム反戦運動の過程で、米軍がベトナムにナパーム弾をバンバン落としてるわけで、アメリカはヒドいじゃないかという感覚は一般的だったにしても、しかし”ヒドいこと”は日本帝国主義もアジア侵略の過程でやっていたんだし、"日本のナショナリズム VS アメリカ帝国主義"みたいな図式にはならない。

 そもそもベ平連も含めて文化的にはアメリカニズムでしょう(笑)

笠井 当時の学生の気分としても"反米"って漢字はなかったよ。

 ないない。もちろん、”アメリカ帝国主義”は悪いし“打倒”の対象でしたけど、"反米"って言うとニュアンスが違う。それに、新左翼は、基本、日帝自立論(戦後日本はアメリカの従属を脱して帝国主義として自立しつつあるという説)で、共産党の反米路線に対立していたわけだ。

笠井 ベースとしてアメリカ的な文化にして親しんでいたということもあるが、何より共産党が”反米”路線だったから。”反・共産党”である以上、"反米"なんて禁句だった(笑)。少なくとも自覚的な新左翼活動家の間ではそうだったと思う 。

よくわからない。反米はいけないとしても、反帝には理があるとしている。そうであるなら、日本人としてではなく「人民」として「帝国」主義の典型的存在である在日米軍、特に、基地外の米兵を「路上襲撃」すればよかったではないか?ここで「襲撃」しなければ、その帝国軍人はベトナムに行くのだ。実際はそういうことを、あれだけのゲバ学生がいて、一人の米兵もしばかれなかったのだ。米軍天国。反米がタブーなのだ。それなのに、笠井は敗戦直後にマッカサー元帥に生タマゴをぶつけなかった日本人、とくに旧軍人はヘタレだと罵倒する。よくわからない。

さらに、何より共産党が”反米”路線だったから。”反・共産党”である以上、"反米"なんて禁句だった、って論理が成り立つならば、何より共産党が”反自民”路線だったから。”反・共産党”である以上、"反自民"なんて禁句だった、ってことになるのではないのか!!!???

対米態度に相当何かあると感じた。

もっとも、素直に「 そもそもベ平連も含めて文化的にはアメリカニズムでしょう」、すなわち、おれたちは 偽毛唐 志願者群だったのだと、あっさり認めてくれれば、簡単に納得できる。

戦後民主主義とは、米軍天国(憲法9条で日本軍の禁止[自衛隊は米軍の補完勢力:米衛隊]、安保で米軍の駐兵権確保)を実現する体制のことに違いない。

「世界革命戦争」を叫んで、駐兵帝国主主義軍になにもしなかったというのは、まさに「世界革命戦争」ごっこだった証左に他ならない。

▼ よみかた

 
『戦略とスタイル』、津村喬(左)、『対論 1968』(右)

十・八は、「ジッパチ」とよむと知る。十・八=第1次羽田闘争は知っていた。眺めにいったこともある(思っていたより小さかった)。でも、「界隈」ではこう呼ぶらしいと知る。

 



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