■ 門閥制度は親の敵
福沢諭吉と云えば、「門閥制度は親の敵」の惹句で有名。その諭吉が仙台伊達家の殿様選びに関与していたのだという。
まずは、このくだりはこういう文章の一部;
如斯なことを思えば、父の生涯、四十五年のその間、封建制度に束縛せられて何事も出来ず、空しく不平を呑んで世を去りたるこそ遺憾なれ。又初生児の行末を謀り、之を坊主にしても名を成さしめんとまでに決心したるその心中の苦しさ、その愛情の深さ、私は毎度この事を思出し、封建の門閥制度を憤ると共に、亡父の心事を察して独り泣くことがあります。私の為めに門閥制度は親の敵で御座る。
(コピペ元)
門閥制度に批判な諭吉。自分の藩である豊前中津の奥平家。奥平家は戦国時代の奥平信昌(1555-1615)[wiki]は徳川家の譜代で、長女・亀姫は家康の長女という家柄。その奥平家に対し、諭吉はもらっった紋付をすぐ売り払ったり、扶持米をもらっても乞食に与えるといったり、かなり大人げない対応をしている。ある種の受動的攻撃の発揮であるとしかみえない。「怨望」が隠し切れなかったのではないか?
■ 門閥制度。つまり、殿様がいて、最下級の藩士がいて、しかもそれらが世襲であるという武家の制度に批判的であるはずの諭吉が、殿様選びに携わり、しかも、後日、その殿様に、あの時は"おれ(たちふたり)が選んだのだから"といって、ある策の遂行のため面会するという話を、諭吉が『福翁自伝』でしている。
■ 仙台伊達家の殿様選び
昨日の愚記事で大童信太夫について書いた;
幕末に仙台伊達家の大童信太夫 [wiki] という'留守居役"(藩の対外折衝役)が、福沢諭吉と「友達」だった。これは諭吉の『福翁自伝』にも出てくる。『福翁自伝』に書かれていないこととして、大童信太夫は2,500両を諭吉に預け、洋書購入を依頼したとのこと。
大童信太夫は正式には公義使[1]という仙台伊達家の江戸藩邸に勤める300石の家臣。公義使=留守居役ということで、藩の外との折衝役だった。それで、福沢諭吉とも知己となる。『福翁自伝』には、2,500両での洋書購入の話は出てこない。出てくるのは、大童信太夫の命を救った話。大童信太夫の命が危なくなったのは戊辰戦争の敗軍処分で命を狙われたからだ。諭吉が大童信太夫の命を助けられた理由は、諭吉が仙台藩主を知っていたからだという。おいらは、にわかには信じられないのだが、『福翁自伝』にある;
ソコで私がこの藩主に向て大に談じられる由縁のあると云うのは、その藩主と云う者は伊達家の分家宇和島藩から養子に来た人で、前年養子になると云うその時に、私が与て大に力がある、と云うのは当時大童が江戸屋敷の留守居で世間の交際が広いと云うので、養子選択の事を一人で担任して居て、或時私に談じて、「お前さんの処(奥平家)の殿様は宇和島から来て居る、その兄さんが国(宇和島)に居る、その人の強弱智愚如何を聞て貰いたいと云うから、早速取調べて返事をして、先ず大童の胸に落ちて、今度は宇和島家の方に相談をして貰いたいと云うので、夫れから又私は麻布竜土の宇和島の屋敷に行て、家老の桜田大炊と云う人に面会してその話をすると、一も二もなく、本家の養子になろうと云うのだから唯難有いとの即答、一切大童と私と二人で周旋して、夫れから表向きになって貰たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に遇う (後略)
つまり、諭吉は大童信太夫[2]と二人で仙台伊達家62万石の殿様の人選に携わったというのだ。まずは、史実を確認する。幕末・維新の時の仙台伊達家62万石の殿様は伊達慶邦(wiki)。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の「盟主」となる。伊達慶邦は世継ぎとして伊達宗敦(wiki)を養子として、宇和島伊達家からもらった。伊達宗敦の実父は伊達宗城。奥平昌邁(wiki)もその息子。したがって、このあたりの事情は、諭吉の話と矛盾はしない。史実は下記の通り;
1863年 既にふたりは知古
1866年 諭吉渡米。大童信太夫から洋書購入(2,500両)を請け負う。
藩主・慶邦の世子・茂村(もちむら)(1850-1867)逝去
1868年 3月 伊達宗敦 養子となる
戊辰戦争 (鳥羽伏見の戦い 1月)
8月、奥羽列藩同盟に組したことから、慶邦と共に新政府から官位を剥奪
9月15日 仙台伊達家降伏。藩主親子は江戸に送られる(10月、芝増上寺で蟄居)。
宗敦、廃嫡。仙台藩28万石に減封。後継藩主は、伊達亀三郎(のちの伊達宗基)。
1869年/明治2年 9月、慶邦、宗敦、謹慎を解かれる
1870年/明治3年 10月、大童信太夫赦免
[1] 公義使 : 初名は聞番。他藩の江戸留守居に相当する。他藩での定府を仙台藩では「江戸定詰」と呼ぶがその代表的な役職。役列は召出以上。役高300石。(wiki [仙台藩の役職])
[2] 大童信太夫と福沢諭吉について(【福澤諭吉をめぐる人々】 大童信太夫)
■ 素朴な疑問
それにしても300石の家臣が殿様の養子=次の当主を「一人で担任」するなんてことは史実なのだろうか?ここで、300石の家臣の意味を確認する。300石の俸禄の級というのは旗本でいえば、並。公義使(江戸留守居役)の地位は、江戸家老(仙台伊達家では奉行と云った、3000石)の部下の若年寄(1000石)の部下である。次の当主を「一人で担任」するのが江戸家老というならまだわかるが、300石の公義使(江戸留守居役)[1]がやっていいのか、とおいらは疑問に思っている。
なお、伊達宗敦の実父は、上の諭吉の文章にもある通り「分家」の宇和島伊達家の伊達宗城であり、当時、島津久光(薩摩)、山内豊信(容堂、土佐)、松平慶永(越前)と4大名と四候と称される徳川慶喜側近の実力政治家であった。これも上の諭吉の文章からわかるように伊達宗城の息子たちは大名家に養子に行っているとわかる。
このように、自分のつくった息子たちを大名家に養子に送る/押し込む大名は、例えば、井伊直弼の父[3]や徳川斉昭[4]などがいる。
[3] 井伊直弼がお見合いを失敗したのは、はたちぐらいの頃だ 七男・直教(なおのり)⇒中川久貴(なかがわひさたか)に養われ、豊後岡七万石藩主。
八男・直福(なおとみ)⇒内藤政峰(ないとうまさみね)に養われ、三河挙母(ころも)二万石藩主。
九男・勝権(かつまさ)⇒松平勝升(まつだいらかつゆき)に養われ、下総多古一万二千石藩主
などなどは大名。 他の兄弟たちは家臣に養われる。
[4] 例えば、鳥取池田家の十二代藩主慶徳は水戸中納言徳川斉昭の五男だ。徳川斉昭には、男女あわせて37人の子供がいた(wiki[徳川斉昭])。そして、岡山藩池田家宗家11代・池田茂政は、徳川斉昭の九男(wiki [池田茂政])。
こういう状況から考慮して、大童信太夫が「養子選択の事を一人で担任して居」たというのは、仙台伊達家の養子は、宇和島伊達家しかないのだから、伊達宗城の息子たちの中から誰にするかに、事実上、絞られていたと家老(仙台伊達家では奉行という)や藩主に共通認識があったということか?
■ 素朴な疑問2 その時、彼は、もはや、殿様ではない
諭吉が「この藩主に向て大に談じられる由縁のある」ことで、「この藩主」、つまり伊達宗敦に「談じた」ことは、大童信太夫と松倉良助の死罪免除と放免の願いだ。でも、上の年表にあるように、伊達宗敦は廃嫡され、「藩主」ではないはずだ。藩主は、幼君といえども亀三郎(宗基)であり、むしろ幼君であるからこそ「取り巻き」がいたのではないだろうか?廃嫡された元藩主が、大童信太夫と松倉良助の死罪免除と放免の権限を持っていられらのだろうか?疑問である。
諭吉が、大童信太夫の命を救うため伊達宗敦に会い、仙台家臣を宥め、すかし、最後は脅して、さらには薩摩のお墨付きまで、かけづり廻って得て、成功したくだりは下記
一切大童と私と二人で周旋して、夫れから表向きになって貰たその人が、その時の藩主になって居るので、ソコで私がその藩主に遇うて、時に尊藩の大童、松倉の両人が、この間仙台から逃げて参たのは、彼方に居れば殺されるから此方に飛出して来たのであるが、彼の両人は今でも見付け出せば藩主に於て本当に殺す気があるのか、但し殺したくないのか、ソレを承りたい。「イヤ決して殺したいなどゝ云う意味はない。「然らばモウ一歩進めて、お前さんはソレを助けると云う工夫をして、ドウかして、命の繋がるようにして遣ては如何で御座る。実はお前さんは大童に向て大に報いなければならぬことがある。知るや知らずや、お前さんが仙台の御家に養子に来たのは斯う云う由来、是れ/\の次第であったが、夫れを思うても殺すことは出来まい。屹度御決答を伺いたいと、顔色を正しくして談じた処が、「決して殺す気はないが、是れは大参事に任かしてあるから、大参事さえ助けると云う気になれば、私には勿論異論はないと云う。マダ若い小供でしたから何事も大参事に任かしてあったのでしょう。「然らばお前さんは確かだな。「確かだ。「ソレならば宜しい、大参事に遇おうと云て、直ぐ側の長屋に居たから其処へ捻込んだ。サア今藩主に話をして来たがドウだ。藩主は大参事次第だと確かに申された。然らば則ち生殺はお前さんの手中にある、殺す気か、殺さぬ気か。仮しや殺す積りで捜し出そうと云ても決して出る気遣いはない。私はちゃんと居処を知て居る、捜せるなら試みに捜して見るが宜い、捕縛すると云うなら私の力の有らん限り隠蔽して見せよう、出来るだけ摘発して見なさい、何時まで経ても無益だ。そんな事をして人を苦しめないでも宜いだろうと、裏表から色々話すと、大参事にも言葉がない。いよ/\助ける、助けるけれども薩州辺りから何とか口を添えて呉れると都合が宜いなんて又弱い事を云うから、宜しいと云い棄てゝ、夫れから私は薩州の屋敷に行て、斯う/\云う次第柄だから助けて遣て呉れぬかと云うと、大藩とか強藩とか云うので口を出すのは実は迷惑な話だが、何も六かしい事はない、宮内省に弁事と云うものがあるから、その者に就て政府の内意を聞て上げるからと云て、薩摩の公用人が政府の内意を聞て、私の処に報知して呉れたには、兎も角も自訴させるが宜しい、自訴すれば八十日の禁錮ですっかり罪は滅びて仕舞うと云うことが分た。夫れから念の為め私は又仙台の屋敷に行て大参事に面会して、政府の方は自訴すれば八十日と極て居るが、之にお負けが付きはしないか、自訴と云えばこの屋敷に自訴するのであるが、この屋敷で本藩の私を以て八十日を八年にして遣ろうなんと云うお負けを遣りはしないか、ソレを確かに約束しなければ玉は出されないと、念に念を入れて問答を重ね、最後には若し違約すれば復讐するとまで脅迫して、いよ/\大丈夫と安心して、ソレからその翌日両人を連れて日比谷の屋敷に行た、所が屋敷の役所見たような処には罪人、大童、松倉の旧時の属官ばかりが列んで居るだろう、罪人の方が余程エライ、オイ貴様はドウして居るのだと云うような調子で、私は側から見て可笑しかった。夫れから宇田川町の仙台屋敷の長屋の二階に八十日居て、ソレで事が済んで、ソレから二人は晴天白日、外を歩くようになって、その後は今日に至るまでも旧の通りに交際して互に文通して居ます。
(コピペ元)
■ 「夫れから又私は麻布竜土の宇和島の屋敷」の画像がネットで見つかった;
宇和島伊達家の屋敷は、3万6千坪であった。現在の六本木、新国立美術館あたり一帯。ちなみに、近くの、今の仙台坂のところにあった仙台伊達家の下屋敷は2万1千坪。
『琉球人行粧之図』『琉球人往来筋賑之図』の作者と伝来 のsiteのリンク先pdfより
■ 家紋 左;仙台伊達家、右;宇和島伊達家