いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

メモ2 わからない日中国交樹立の動機

2008年05月19日 19時05分56秒 | 中国出張/遊興/中国事情

故宮:旧禁紫城にて 2005年10月

続、わからないこと。昨日の中途半端の続き;

中国側の誰が日中国交樹立/回復を望んだか? その動機、特に戦略的動機は?

わからない。 ただし、当時の中共の実力者の毛沢東と周恩来は容認している。むしろ、周恩来は推進派のように見える。ただし、一見そう見えるがわからない。 なぜなら、周恩来は文革の最中も毛沢東に根源的に逆らうことなく、結果的には、文革を容認、あるいは、むしろ、宰相としての実行者であった。

ここで考えねばならいのは日中よりもむしろ米中の電撃「和解」である。これは米国からのもちかけだとしても、毛沢東が容認、推進しないと進まない話。 たぶん、毛沢東が米中和解を望んだと見るのが自然かと思う。 なぜなら、当時は中ソ対立が激しく、実際に国境で武力衝突までした。 米ソ両面作戦は戦略的に無理と毛沢東が考えたのだろう。

さて、日中「和解」。米中和解が進めば、別に中共は日中関係にあせらなくてもいいような気がする。毛沢東が日中和解を勧めたのは、米中と日中を天秤にかける戦略であろうか?

経済協力か?

「毛沢東と周恩来は、日本からの経済援助と技術援助をあてにして、1972年の日中和解をしたのだろうか?」という問いが普通に生じる。

現在となってはまさにそう見える。ただし、1972年は林彪が死んだ後で文革は新たな段階にあったが、基本的に資本主義的要素を導入した修正主義は、毛沢東の文革時の主張である「修正主義撲滅」という路線にはあわない。

ちなみに、本格的に日本からの借款や技術援助が始まったのは1978年の日中平和友好条約の後である。すなはち、文化大革命完全終焉後である。この時期の最高実力者は小平である。つまりは一番の文革被害者、非文革派の総帥にほかならない。毛沢東が意図的に6年後に反文革派の小平が戦略的に成功するために日中関係の礎を築いたというはありえない。もっとも、最高に皮肉なことに小平は毛沢東の戦略的恩恵を受けることとなる。 謎だ! 1972年の中共実力者(毛や周)の戦略的動機はなんなんだ?

っていうか、むしろ、動機は日本側に求めるべきなのか?

んー、わからない。




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