- 天安門内側より -
■
今日もどうでもいいことだけれども、「そういえば1972年の日中国交回復は中国は文革期ではないか」と気づき、なぜ文革中国が日本との国交回復をしたのか、可能であったのか、いささか調べた。
▼文化大革命いきさつ
1965 文革開始。毛沢東は若者を唆し、劉少奇ら修正主義者との権力闘争をしかける。
1966-1967 劉少奇、小平自己批判および紅衛兵からつるしあげ。
1968 紅衛兵運動の終息(毛がもてあまして、下放に転換)
1971 毛、林彪を批判。身の危険を感じた林彪はクーデターを企てる。失敗、死亡。
文革の事実上の破綻。しかし、完全な終焉の1977まで、まだ6年。
米・キッシンジャー、パキスタンから極秘で訪中。
1972 2月 米国大統領 ニクソン 訪中。
9月 日本 角栄訪中。 革命中国と初の国交樹立。
(蛇足、ぬっぽん・連合赤軍残党、米中・日米接近の事実に呆然自失。)
1973 小平復権
しかし一方、毛、周恩来を批判。「大事を討論せず、小事を毎日報告する。この調子を改めざれば、必ずや修正主義に至る」と。
1974 四人組と小平の権力闘争。このころ、紅青まだまだ元気でイケイケ状態。
1976 1月 周恩来死去
7月 唐山大地震 (死者20万?) 今、HITACHIの方が犠牲になったと、知る。
9月 毛沢東死去
10月 四人組逮捕 文革完全終息
1978 小平実権を掌握。 小平路線の開始。
(ちゅーと、はんぱ)
清朝の王宮・故宮を見て、上記画像の門を故宮内側から、最後の門を出て、あー故宮見物も終わりか、と振り返ると、なぁーんだ、びっくり、マオさん画像と見慣れた光景。 天安門だったのでした。(2005年、1回目の北京訪問にて)