いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

老舎の死の日本への伝わり方; 水上勉、『こおろぎの壺』を読んだ。

2014年04月06日 18時13分06秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 文化大革命開始直後に紅衛兵に迫害されて老舎が1966年8月24日に死んだ。このことが日本にいつどのように伝えられたか調べている。1971年には「とりわけ老舎、巴金、趙樹里、田漢、曹禺らがどうしているのか、生死さえわかっていない」と書かれた本が出版されている。柴田穗、『周恩来の時代』、中央公論社だ。したがって、1971年の日本では老舎の1966年の死は公式情報ではなかった。この老舎の死について老舎にゆかりの深い三人の日本人作家が作品を書いているとネットで知った。

老舎と面識のあった何人かの日本人作家が追悼的な文章を書いている。 開高健「玉、砕ける」水上勉「こおろぎの壷」井上靖「壷」有吉佐和子『有吉佐和子の中国レポート』 (blog ものろぎや・そりてえる 殿; 記事:2010年4月29日 (木) 老舎のこと

があると知る。開高健「玉、砕ける」については、愚記事で「繰り返すと、この香港の空港で老舎の死を知った年月日は分からない。そして、この開高健、『玉、砕ける』は、書誌には、昭和53年3月1日に「文藝春秋」に初出とある。1978年だ。」と言及している。今日は水上勉、『こおろぎの壺』を読んだ。短い文章ではあるが意味深長である。

 この『こおろぎの壺』は1967年(昭和42年)3月に別冊文藝春秋に初出。その中で3年前の冬に水上の家に老舎が来たとある [1] 。ということは、1964年早春から1963年晩秋の間ということになる。愚記事:老舎は日本に何度来たのだろうか? で書いたが1963年11月に巴金を団長とする中国作家団が来日している。そして、巴金らが水上勉の家に行っている。写真も残っている⇒このweb site。この1963年11月の訪日中国作家団の中に老舎の名は見当たらないし、リンクした巴金らが水上勉の家での写真にも老舎は写っていない。もっとも、『こおろぎの壺』は小説であり水上の自宅を訪問の季節、あるいはそれ自体がフィクションなのかもしれない。なお、張競さんは「(水上勉と)巴金との付き合いは63年にさかのぼる。その年の5月、巴金や老舎らが東京・豊島区高松町にある水上勉邸を訪れた」と書いているが、この事実は他のところでは確認できない。

[1] 2022/12/8後記: 史実としては、たった一度の老舎来日は1965年3月である。(愚記事:老舎の死の日本への伝わり方 II; 水上勉、『北京の柿』を読んだ、あるいは、張教授の事実誤認

 水上勉の『こおろぎの壺』では、水上勉が老舎という作家を全く知らないことになっている。日中友好協会が連絡して来て、老舎が水上勉を訪問したいという設定だ。ところで、こおろぎの壺を実は知っている人は案外多いかもしれない。映画『ラストエンペラー』のエンディングだったかに年老いた溥儀がかつての玉座にすわり、大人の握りこぶしほどの大きさの器をいじり、それがこおろぎの壺であり、幼い頃こおろぎを入れて遊んでいた記憶がよみがえるというシーンがあったと思う。あれだ。


  ソース

 水上勉の『こおろぎの壺』では、こおろぎを闘わせて遊ぶための、こおろぎの入れ物であると紹介される。そして、この”こおろぎの壺”のこの作品での出方が不思議である。まず、水上はこの”こおろぎの壺”を大分県の木下知事の中国旅行みやげをみせてもらうことで知る。

木下知事は、「こおろぎですよ。北京の古道具屋でみつけてきたものですが・・・・中国では、これにこおろぎを入れて喧嘩させてあそんだものらしいですね」といわれた。私ともうひとりの客は、不思議な容器をながめながら、こおろぎを飼うという中国の風習をはじめて知った。こおろぎを壺から出して喧嘩させて楽しんだという中国の貴族の生活に思いをめぐらせると、私は、しばらく感慨をおぼえずにおれなかった。木下知事は、容器を買ったのが縁で親しくなった古道具屋からきいたのだと私たちにそのことを説明したが、私にはそのこおろぎの眠る壺は不思議でならなかった。いったい、こおろぎが喧嘩したりするものだろうか。 水上勉、『こおろぎの壺』

そして、この”こおろぎの壺”について老舎にたずねるという設定に、この作品『こおろぎの壺』では、なっている。それまで知らなかった作家である老舎になぜかしら水上は、唐突にも、”こおろぎの壺”について尋ねるのだ。そして、その理由説明がちぐはぐである。

 正直いって、私は老舎先生に会ったら、たずねてみたいことがあった。それは「こおろぎの壺」のことであった。 水上勉、『こおろぎの壺』

とある。どううい点がちぐはぐかといういと、全く予備知識がない中国作家が家に来る。来る理由は業界団体の要請だ。渡世の義理で水上は受けたに違いない。繰り返すと、水上は老舎がどういう作家であるか知らなかったという設定である。ちなみに、この頃老舎はノーベル賞候補であったとされる。さらには、水上は「中国のことはまったく不案内なので」と書いている。水上は戦前大陸にいた。それなのに、正直いって、私は老舎先生に会ったら、たずねてみたいことがあった。それは「こおろぎの壺」のことであった、とくる。

「老舎先生」
と私は、黙ってじっとこっちをみておられる先生の前で、折り目正しく訊ねた。
「私は、中国の古道具屋で見つけて買ってきたという一個の木壺をみたことがあります。たずねてみると、それはこおろぎを飼う容器で、喧嘩をさせて遊ぶらしい。中国ではむかしから、そのような風習があったのでしょうか」
「ありました」
と、老舎先生は通訳を通じてこたえられた。一瞬、表情が少しひきしまったようだった。
(中略)
 私は合点がいった。(中略)私は老舎先生の説明を聞いていると、中国の城主たちが、退屈した生活であったために、そのようなあそびで時間をつぶす姿が想像された。そして城主たちは私の少年時のように孤独であったにちがいないと思えた。
「孤独なあそびですね」
と私はいった。  水上勉、『こおろぎの壺』

そもそも、この水上と老舎の対話が事実なのか、フィクションンなのか、わからない。おそらく、フィクションンなのだろう。

そして、現実は1966年夏から中国では、こおろぎ大喧嘩である。いや、こおろぎ大戦争だ!


喧嘩をさせて遊ぶ
・退屈した生活であったために、そのようなあそびで時間をつぶす姿が想像された
・孤独なあそびですね


 こおろぎ百万匹大会

    
  林こおろぎと周こおろぎ    ちまたのこおろぎ


   孤独な皇帝(毛沢東)と物書きこおろぎ(老舎)

1967年春には老舎の死の伝聞を受け取っていた水上は老舎の死のいきさつを見通していたのだ。

そして、書いてある;

 最近、新聞や雑誌の一部で、中国の文化大革命なる騒ぎが目にとまるようになって、老舎先生が亡くなられたという風聞も私につたわった。信じられないことながら、海をへだてた遠い国のことであるから真相はわからないのである。 水上勉、『こおろぎの壺』

まとめ; 水上勉、『こおろぎの壺』とは毛沢東論でもあるらしい。