いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

老舎は日本に何度来たのだろうか?

2014年03月26日 19時35分10秒 | 中国出張/遊興/中国事情

 (後記: 老舎は日本に何度来たのだろうか?の「正解」は別途こちらに記述)


(詩文往還 作家と中国 張競)水上勉の街歩き(3) 苦難の人生慰めた厚い人情 [有料版へのリンク]

日本経済新聞を見た。日曜日に連載されている張競さんの「詩文往還」をみた。

少しびっくりした。なぜなら1963年に老舎が日本に来たと書いてあるからだ。老舎を昨年10月に知ったおいらは、老舎が1965年に日本に来たことは知っていた。文化大革命の勃発で自殺に追い込まれる前の年だ。その1965年とは別に来日していたのか!?。知らなかった。

3/23の張競さんの「詩文往還」にはこうかいてあった;

水上勉と)巴金との付き合いは63年にさかのぼる。その年の5月、巴金や老舎らが東京・豊島区高松町にある水上勉邸を訪れた。

とある。1965年とは別に老舎は東京にきていたのだ。半年前に老舎を知らなかったおいらは(愚記事:蒙童、老舎老師を知る)、当然巴金も知らなかった。老舎のことを調べていると当然、巴金は出てくる。そもそも、読めなかった、巴金。巴金=ばきん。その後愚記事にも出てくるようになった。例えば;

とりわけ老舎、巴金、趙樹里、田漢、曹禺らがどうしているのか、生死さえわかっていない。(愚記事:呉智英さんへの恩返し

ところで、1963年に老舎は何の目的で来日したのか?ネットで調べた。

11月 中国作家代表団(巴金団長、謝冰心、厳文井、馬烽、許覚民らの諸氏)来日。 引用元(日中文化交流協会のあゆみ 1963年

とある。11月だ。上記、「巴金との付き合いは63年にさかのぼる。その年の5月、巴金や老舎らが東京・豊島区高松町にある水上勉邸を訪れた」とは時期が合わない。さらに、11月の中国作家代表団の作家たちの名前の中に老舎の名がない。ということは、張競さんが言及している5月のことはこの11月の来日とは別のことなのだろうか?"日中文化交流協会のあゆみ"には、

 日本中国文化交流協会編集部の情報(引用元)では、「自宅で巴金(左から2人目)、厳文井(右から3人目)、馬烽(右から2人目)の諸氏を歓迎する水上勉氏(左から3人目)と叡子夫人(左端)。(1963年11月22日、東京」)とある。

整合性があるように考えると、巴金は1963年に2度来日した。5月と11月。5月は老舎と一緒だった。

でも、この時代、中国人が、有名作家といえども2度も来日できるのだろうか?

■ 一方、1961年。 巴金は1961年にも来日している。

アジア・アフリカ(A・A)作家会
    議東京大会参加中国代表団(巴金団長、劉白羽副団長、楊朔、林林、沙汀、謝冰心、李季、葉君健、韓北屏、李芒、
   呉学文、劉徳有、李の諸氏)来日。

東京で開催されたアジア・アフリカ作家会議に出席のためだ(引用元:日中文化交流協会のあゆみ 1961年)。

▼ 1961年、老舎来日?

この1961年の中国作家団の来日について、老舎も来たとのネット情報がある;

 1961年 昭和36年: アジア・アフリカ作家会議に中国の巴金、老舎が来日。 (引用元: 芹沢氏の生涯を簡単に年代順で追っています。

確かに、東京で開催されたアジア・アフリカ作家会議に巴金は出席したらしい。ただし、老舎出席はこのネット情報以外見当たらない。

■ 半年前に老舎を知らず当然巴金も知らなかったおいらは、巴金を読み始めた。巴金は、老舎と違って、文化大革命の10年を生き延びたのだ。老舎のように自殺した方がよかったかもしれないと傍には感じさせる苛酷な文革時代の越冬生活の回顧録だ。

おいらが内心感じていたこと。文革終了時の中国人の気分は、敗戦直後の日本人の気分に似ていると。去年、ある中国人と、日本語で、話をした。かれは、日本で学位を取って、日本で働いている。おそらく、30代後半。その彼が自ら言っていた。「文革後の改革開放は、敗戦後の日本の高度経済成長のようだ」と。

そして、巴金の文革受難録。興味深いことばかりなのである。特に文革への恨み節は出てくる。そして、その恨み節は、林彪、「四人組」、極左分子の空論と表現されるものに向けられている。

おいらが、今のところ読む限り、まだ文革の責任者としての毛沢東の名は出てこない。

これまた、昭和20年・1945年この列島において、厄災の責任は軍国主義者にあると恨み節もいうも、天皇の名を口にしない「普通」の敗戦直後の日本人と同じではないか!

::直視されない皇帝さまたち= 赫奕たる太陽;

  


 

↓ おもいがけない=心の準備ができていない、 here comes the Sun

▼ 関連愚記事:

天皇は突然、戦争中シンガポール国民の味わった苦難に対して遺憾の意を述べたのであった。私は黙って頷いた。心の準備ができていなかったのだ。沈黙を保つのが一番いいと思った。

小柄でほっそりとして猫背の体。 



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