いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

なつかしい本の話、村上春樹、『風の歌を聴け』

2014年03月12日 20時30分25秒 | 

 実際この社会では、あらゆる行為がいつの間にか現実感を奪われてしまう。学生の暴力行為が、「革命ごっこ」としか見えないのは、かならずしもテレビのせいだけではない。彼らの反体制運動が、一九六七年秋以来過激化してとどまるところを知らないのは、彼らのあの手に届かぬものに対する欲求があり、なにかを経験したいという渇望が熾烈だからであろう。(中略) 間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説が数限りなく書かれるであろう。そしてそれは、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識に到達したものでないかぎり、すべて私小説の実質感と抑制を失った”私小説の影”のようなものになり、しかも決して私小説の限界を超えることがあるまいと思われる。  江藤淳、 『「ごっこ」の世界が終ったとき』、初出、『諸君!』 1970年1月号

今日は都内に外勤だった。常磐線で、村上春樹、『風の歌を聴け』を読んだ。

(あわせて、呉智英、『読書家の新技術』、1982年刊行、も読んだ。その本で呉智英さんは「資本主義の会社に勤めている人。何の恥ずかしいことがあろうか。がっちり儲けて、そして読書をしてほしい」、と書いてあった。「ありがとう、呉智英さん」とサラリーマンのおいらはつぶやいた; 愚記事:1980年台前半、おいらが中二病に罹患し、こじらせていた頃、おいらは、背広着て、仕事に行く「サラリーマン」というものだけにはなりたくないと念じていた。

先日来の、"おいらが耽読した呉智英さんの本は、『封建主義、その情熱と論理』、『インテリ大戦争』、『大衆食堂の人々』の"初期三部作"(と勝手においらがよんでいる)3冊"と同時期に読んでいた本だ。

これらの本はおいらが、はたちくらいの時に読んだ本だ。村上春樹、『風の歌を聴け』は1979年の作品である。1986年に文庫本化された(と今からみればわかる)。おいらは28年前、村上春樹の『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』を読んで、びっくりした。こういう小説があるなんて。1986年だ。つまりは、初版よりかなり時間がたっていたのだ。この後、『ノルウエイの森』が出版される。バブル絶頂期。もし、おいらが最初に『ノルウエイの森』を読んだら、村上春樹を嫌いになったに違いない。だって、気持ち悪い。村上春樹を気持ち悪いと非難するひとが少なくない。理解できる。

村上春樹の初期3部作(とおいらが勝手に名付けている)、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』は、その気持ち悪るさとやや距離をおいていると思う。どういう点かというと、最近おいらが知った言葉でいうとこの3部作、特に『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』は「傷痕文学」なのだ。

傷痕文学とは文革で受難した者たちの回顧文学である。

つまりは、1960年末期の叛乱の時代とされる時期に大学で、どういう形であれ、紛争に巻き込まれ、場合によっては革命を夢想し、そして、挫折した男の話なのだ。村上春樹、『風の歌を聴け』には書いてある;

 十代の頃だろうか、僕はその事実に気がついて一週間ばかり口もきけないほど驚いたことがある。少し気を利かしさえすれば世界は僕の意のままになり、あらゆる価値は転換し、時は流れを変える・・・ そんな気がした。

(違うページからの引用)

そして僕は機動隊員に叩き折られた前歯の跡を見せた。

なので、村上春樹のこれらの作品は、上記江藤が指摘する 「間もなく沖縄・反安保闘争の挫折を主題にした小説が数限りなく書かれるであろう。そしてそれは、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識に到達したものでないかぎり、すべて私小説の実質感と抑制を失った”私小説の影”のようなものになり、しかも決して私小説の限界を超えることがあるまいと思われる」 というのではなく、ちゃんと、いわゆる「経験」が経験の影にすぎなかったという残酷な認識を示しているのではないかと思う。

それにしても、『風の歌を聴け』は結局のところよくわからない。何かとても思わせぶりなところがあり、それを知的に探りあてることが求められているのか?実は、本当に経験の影なのか?のちに、また結婚詐欺の小説か!という突っ込みを出来させることになる村上文学。その嚆矢となる事例が『風の歌を聴け』には、早々と、きちんと書かれている (!!!!!!???????);

「ねえ、私を愛してる?」

「もちろん。」

「結婚したい?」

「今、すぐに?」

「いつか・・・・・もっと先によ。」

「もちろん結婚したい」

「でも私が訊ねるまでそんなこと一言だって言わなかったわ。」

「言い忘れてたんだ。」

(中略)

「嘘つき!」

と彼女は言った。

●村上春樹が早大時代に何をしていたのか知らない。呉智英さんはがんばっていたらしい。それが宮崎学の『突破者』という本に書いてあるとwikipediaで知った。今度、見てみよう。

  

鼠が大学を去ったのには幾つかの理由があった。その幾つかの理由が複雑に絡み合ったままある温度に達した時、音をたててヒューズが飛んだ。そしてあるものは残り、あるものははじき飛ばされ、あるものは死んだ。    村上春樹、『1973年のピンボール』

とまれ、1980年代初頭は、1960年末期の叛乱の時代とされる時期に大学で、どういう形であれ、紛争に巻き込まれ、場合によっては革命を夢想し、そして、挫折した男で、その後、会社など組織に入らないで30歳を超えた作家・物書きが世に出始めた時期らしい。 おいらは、それらにぶつかったのだ。

*村上春樹の作品における海ゆかば、山ゆかば; よく出る日本兵の屍

村上春樹の作品は、当時としては浮世離れした「洒落た」バーや当時一部の趣味のいい人たちしか聞かなかったであろう(?)音楽やそれに似合う登場人物などがでてくる。そういう点で人気が出たとされる。でも、今日気づいた点。『風の歌を聴け』でも『羊をめぐる冒険』でも日本兵の屍が出てくる;

 25年前、ニューギニアのっジャングルには虫除け軟膏を塗りたくった日本兵の死体が山をなし、今ではどの家庭の便所にもそれと同じマークのついたトイレ用パイプ磨きが転がっている。  『風の歌を聴け』

日露戦争が始まると村からは五人の青年が徴兵され、中国大陸の前線に送られた。彼らは五人とも同じ部隊に入れられたが、小さな丘の争奪戦の際に敵の榴弾が部隊の右側面で破裂し、二人が死に、一人が左腕を失った。戦闘は三日後に終リ、残りの二人がばらばらになった同郷の戦死者の骨を拾い集めた。彼らはみな第一期と第二期の入植者たちの息子だった。戦死者の一人は羊飼いとなったアイヌ青年の長男だった。彼らは羊毛の軍用外套を着て死んでいた。  『羊をめぐる冒険』

▼ なお、wikipedia の呉智英の情報で、「(呉智英さんが)影響をうけたもの 西部邁など」、とある。変だと思う。西部邁の『大衆への反逆』は1983年刊行である。一方、呉智英の『封建主義 その論理と情熱』は1981年の出版である。西部の「大衆批判」、民主制への疑問よりよっぽど先である。この『封建主義 その論理と情熱』は公然と民主制を批判した書としては戦後出版史で他に先例を見つけるのが難しい書ではないだろうか? ただし、おそらく、当時は ネタ だろうと思われたに違いない。

もっとも、西部邁の『大衆への反逆』は「大衆批判」とは言え、実際は知識人=専門人批判であり、普通の庶民を攻撃するものではない。したがって、その点大衆食堂を経営する夫婦の下種な欲望を目ざとく指摘する呉の『大衆食堂の人々』は、実は、かなり過激である。 タブー=普通の庶民を攻撃するな!を侵犯する恐れがあるからである。