いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

栗塚、 そして、船橋洋一 『内部』がきた、あるいは、円本を肴に

2014年02月19日 19時00分00秒 | 筑波山麓


 栗塚

栗塚なんてことばがあるのか知らなかった。あった→ google

栗塚古墳、ってのもあった; リンク

裁かれる江青女史の言葉 ― 

「私に過ちはない。もしありとすれば、ただ一つ、それは権力闘争において、おまえたちに破れたことだ」。

さすがに元女優、恐らく一世一代の名台詞であろう。 

福田恒存、『問いただしき事ども』(1981年、新潮社; 初出:中央公論 昭和五十六年 [1981年] 三月号) (かなづかいなどは勝手に今風に変更;訳文も勝手に変えた)


http://news.takungpao.com.hk/history/story/2013-07/1774136_2.html

 3日前の愚記事 [リンク] で、船橋洋一、 『内部』の古本を発注したことを書いた;

来た。

船橋洋一は1980年2月から1981年12月まで朝日新聞の北京特派員だったのだ。

その北京・中国滞在を基にした本。内容は当時、随時、記事になっていたもの。

文化大革命が終り(1978年)、四人組が逮捕され、裁判にかけられていた時期だ。

船橋洋一、 『内部』でもエピソード的に触れられている;

また、八〇年末のいわゆる「林彪・四人組」裁判で法廷に引きずりだされた江青夫人が、居並ぶ裁判官、検事をにらにつけ「一体お前たちの中で長征したものはいるのか。私は故毛沢東主席に従い、長征したのだ」といった趣旨の言葉を吐いたが、これなども中国共産党内で長征幹部の持つマジックを物語るものであり、江青発言はその意識をそのままに表したに過ぎない。

もっとも、文革終焉と船橋在中の間には中越戦争があった。日本政府・大平正芳が小平によるベトナム懲罰戦争を「黙認」した話はまた今度。

ちなみに、この1981年の時点で、福田恒存は「 「四人組」の運命はまだはっきりしない。毛沢東の文革派はまだ生きている」といっている。

今から見れば、文革が終ったこの頃と六四天安門事件の1989年の10年間が日中関係が良かった。 日中の小春日和!

(この小春日和に、中曽根康弘さんは靖国参拝で中共に妥協した! 妥協すべきと思ったほど、日中は小春日和であったのだ;
もっとも、中曽根さんが靖国参拝をやめる理由、すなわち、"親日派"="民主改革派"の胡耀邦+趙紫陽の立場を慮ったという考えは、小平の六四天安門事件で全くの"勘違い"であったと判明する)

船橋洋一、 『内部』にはさまざまなことが書いてあるが、やはり文革後の中国社会の細部を書いてある。

たとえば、傷痕。

傷痕文学とは文革で受難した者たちの回顧文学である。船橋が中国にいた時(1980-1981)にはすでに、世に出ていた。

中国で1977年から1979年ごろにかけて書かれた、文化大革命の悲惨さを描く一連の文学作品。廬新華の「傷痕」に基づく名称。劉心武の「班主任」などがある。 (傷痕文学:デジタル大辞泉site

船橋洋一、 『内部』には「傷痕」という一節を含む"「歴史問題 - 引きずる重い過去」"という章がある。そこには文革で戦前に京大を出た医学博士で医師の夫(chinese)を殺された日本人妻の体験記が紹介されている。1980年に名誉回復の葬式が執り行われた。「きょう来てくれた人の中には、かつて先頭に立って私たちを迫害した人もいた。そういう人に対しても母は微笑を絶やさず手を握っていたが、私は笑えなかった」と娘の話。さらに、「追われた元のポストに旧文革派の幹部が居座っていたり、」と1980年の北京の状況が船橋洋一、 『内部』では報告されている。上記、福田恒存の指摘はまんざら的はずれではない。

▼ 傷痕皇帝

この船橋洋一、 『内部』にはいたるところに下放青年の話が出てくる。すなわち、1955年前後の生まれ(を中心に)、特に北京、上海などの大都市部の青年が文革前期(1967-9年ごろ)に地方の農村に移住させられたこと。船橋が北京にいた1980年頃は彼ら下放青年たちが20代中盤あたりでまだまだ生まれ故郷の都市に貧困の農村から復帰することを切望していた頃だ。

1980年と言えば、中国で大学が正常化して数年後の頃だ。

この下放青年は傷痕世代である。そして、今の皇帝さまは典型的な下放青年である。ただし、中国共産党高級幹部子弟の典型的な下放青年。他の下放青年とは違って、北京に復帰、大学に行けた。

この船橋洋一、 『内部』の時代には、30年後に下放青年から皇帝=中国共産党総書記が出るとは夢にも思わなかったろう。

なお、船橋洋一、 『内部』を読むと、この頃1980年にはすでにエズラ・ヴォーゲルは中国に出はいりしているとわかる。おそるべし、毛唐さまの研究力。

■ まとめ

 
  長征幹部     下放幹部
(関連愚記事;毛主席に従い


今日の元ネタ

  
問ひ質したき事ども (1981年) 1円 Amazon    内部(neibu)―ある中国報告 1円 Amazon

『円本』の呼び名は出版社側の命名でなく[5]、たまたま、1925年大阪、1927年東京に登場した市内1円均一の『円タク』から、派生したと言われる。 

1円は当時、大学出の初任給の約2%に相当した[6]。それを廉価とうたえたほどに、それまでの本は高価だった。 (wikipedia


いか註; 現在の大卒初任給(平均)は、20万1800円だそうだ[根拠]。 そうすると、大学出の初任給の約2%とは、4000円となる。

本1冊、4000円。 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。