いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

(無題)

2012年10月21日 20時05分58秒 | その他


   -2週間ほど前の筑波山麓-

■ 今日知ったこと; カルカッタ空襲

週末、岡部伸 (産経新聞記者)著、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』を読む。

本の主旨から、わざと、はずれて、今日知ったことをメモ;

・小野寺信自身ばかりでなく、板垣征四郎も、東條英教(ひでのり@ヒデキのとぅちゃん)同様、南部家出身と知る。

・そして、カルカッタ空襲。

百合子 日本が爆撃して、戦果をみないで、帰ってきているのね。それこそ攻撃が怖いからと。ワーッと行って、爆撃して、帰ってきちゃった。それで、何月何日の日本の爆撃でこれだけの被害があったという戦果があった。それのことよね。

小野寺 うん。

(中略)

日本のインド爆撃における戦果情報も、その一つだった。この経緯を小野寺は「回想録」でも詳しく書いている。

「あるとき(一九四四年の一〇-一一月ごろ)、大本営から『○月○日カルカッタヲ空襲セリ』という電報があり、その直後に、ロンドンから、偶然、その時のカルカッタの被害状況を知らせる手紙が来たので、参謀本部に被害状況を詳しく報告すると、『当方ハカルカッタヲ爆撃セシノチ直ちに引キ返シテオリ、戦果ハ不明』と感謝の電報が来た」  (岡部伸 著、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』 p288)

ここで、百合子とは、小野寺信少将(wiki)の細君で、諜報協力者のこと。そして、カルカッタ空爆の成果の詳細を、ロンドン在住の亡命ポーランド政府の諜報員から小野寺が入手していたことの一例。当事者である日本軍も知らない情報を英国側の情報として入手し、東京の参謀本部に送り、誉められたというエピソード。ただし、後述の通り、「話」の是非は精査が必要。

イムパール作戦の一環として、日本軍はカルカッタを空爆していたのだ!と、おいらは初めて知った。

調べた。服部卓四朗、『大東亜戦争全史』のp593、第7篇 大陸方面の作戦 第一章 イムパール作戦、第五飛行師団のカルカッタ、〔雲南進攻〕、に書いてあった。

即ち一二月五日には陸海軍機一六〇機を以ってカルカッタを攻撃し、大戦果を挙げた。

でもこれは、1943年のことだ。

では、岡部伸 著、『消えたヤルタ密約緊急電 -情報士官・小野寺信の孤独な戦い-』のあるとき(一九四四年の一〇-一一月ごろ)、大本営から『○月○日カルカッタヲ空襲セリ』という電報がありとは別の空爆なんだろうか?

うーん。おいらは、今、信じられなくて、再度年月日のチェックを行っているのだが、1944年12月は敗戦の9カ月前だ。東京が手を挙げる9カ月前に、そんな悠長な作戦をやっていたんだろうか?

別の空襲のことなんだろうか?、それとも、ただの年月日の記載間違いか?

それにしても、カルカッタ空爆は知らなかった。

カルカッタといえば、スピヴァク センセと同じく、チャンドラボースの故郷である。

もちろん大英帝国の支配下であるのだから、「解放」のための武力行使なのではあるのだが。

▼ そして、チャーチル

英国の守勢方針

1944年(昭和19年)10月に、チャーチルはマウントバッテンに次のように指令している。

貴官の第一の任務は日本軍に執拗に繰り返し繰り返し接触し挑発し続けて日本軍を疲れさせ、特にその航空戦力を消耗させることだ。そうして太平洋正面からビルマ正面に日本軍の戦力を吸引することである。

John Ehrman, Grand Strategy  (London: Her Majesty’s Stationery Office, 1956), p.148(荒川憲一による訳。[14]

 (wiki)