いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

なつかしい本の話; 石田保昭、『インドで暮らす』

2012年07月29日 18時25分01秒 | インド

二か月あまり前、猫々センセに言及されていた、石田保昭、『インドで暮らす』 (2012-05-30 何ゆえに)。

この石田保昭、『インドで暮らす』は、半世紀前に出た本だ。

小谷野さんはこの石田保昭、『インドで暮らす』の蝋山芳郎が書いた序文について、「序文に書くことじゃないというような感じの文章なのである」といっている。そして、「何ゆえに」と疑問を持っている。

「何ゆえに」?という疑問へのおいらの邪推は後段で書くこととして、そもそもこの石田保昭、『インドで暮らす』について書く。

▼こ の猫々センセの記事を見て、あーなつかしや、とおいらは思った。おいらがこの本を読んだのは1980年代前半。まさに小谷野さんが「83年の22刷だから 売れた本」というように、本来は1963年に出版された本なのに20年経っても巷では読まれていたのだ。ちなみにこの石田保昭がインドに滞在したのは 1959-1962年なので、60年安保の頃である。

すでに1980年代でも時代錯誤の印象が強い本だった。この後の日本保守革命とバブルでこの石田保昭、『インドで暮らす』を読む人は絶えたのだろう。

石田保昭という人は1930年生まれ。父も祖父も職業軍人という系譜。陸軍エリートの家庭の家風なのか、石田は陸軍幼年学校へ。そこで敗戦。

「一九四五年八月二日、西八王子にあった東京陸軍幼年学校に二万発の小型焼夷弾が落とされた。直撃弾で死んだ三人の戦友の死体が、焼け残った倉庫にころがされていた。」

「 一九五六年、私は修士コースを終った。博士コースの入学試験に落第したので、高等学校の講師をしながらひきつづき『インド・イラン評論』に仕事に従事していた。

 日本ぜんたいがぬるま湯のような太平な社会であった。私の頭のかたすみには、一九四五年八月二日になくなった戦友の死顔が消え去らないのに、世間の人びとの顔つきからは戦争のきずあとはもはやかげをひそめてしまった。(中略)私は日本人のものわすれの早いのに絶望した。」 (石田保昭、『インドで暮らす』)

という意識をもちながらインドに行ったということだ。ここで、「戦友」の表記に注意。陸軍士官学校はともかく、幼年学校の生徒も軍籍をもっていたのであろうか?もし軍籍をもっていたなら、すなわち軍人であったなら、おいらの愚記事の題名「日帝海軍最年少の復員兵、あるいは日帝廃棄物; 木田元さん私の履歴書」に疑問符がつきそうであった。なぜなら、木田元さんは1928年生まれであり、石田保昭さんは1930年であるから、石田さんの方が若いのだ。でも、日帝海軍最年少の復員兵という題は、日帝海軍と限定されているので、まぁ大丈夫。でも、石田保昭さんは、15歳で、敗戦。15歳の日帝陸軍復員兵となる。ゾル転して、一高(?)⇒東大と進む。

東大文学部の東洋史でインド史を専攻する。マスターは出たけれど、ドクターコースの試験に落とされる。その落第の後に「インドに行って日本語を教えないか?」と指導教官あたりから勧められた。

奇書、『インドで暮らす』

突然ではあるが、林真理子の業績として”「ねたみ・そねみ・しっとを解放」したことである”との斎藤美奈子の評(『文壇アイドル論』)が知られている。しかしながら、この本『インドで暮らす』石田保昭では、呪い、が公然と吐露されている。そして、僻み根性に基づくぐち、ひいては中傷が舞う。

   ●ひがみ篇

例えば、石田が駐印中に東大の考古学調査団が来る。この東大考古学調査団への感想がすごい。

このくだりは本書をコピーした↓ (クリックで拡大)。酔狂な方はお読みください。

 コピペ画像1

 コピペ画像2

東京大学インド史蹟調査団が来た(上のコピペ画像1の③段落)。⇒ニューデリーの日本人社会⇒ある商社のニューデリーの駐在員は、・・・スキヤキ、・・・ジョニー・ウォーカー、・・・ボンベイは公認売春地域である・・・さっぱりしたほうがいいね・・・アングロ・インディアンを買いに行く(上のコピペ画像1の⑤~⑦段落、コピペ画像2の⑧~⑨段落)。⇒⇒

 このオッサンは極端な例だが、日本人のあいだにこのようなことを赦す雰囲気があるかぎり、インドの人びとの持つ悲しみはわからないはずだった。
 そして、日本の「伝統ある」東洋史学をどう考えればよいのであろうか。-私が日本にいた時から抱いていたこの疑問は、ついに結論に達するに至った。  (上のコピペ画像2の⑪段落) 石田保昭、『インドで暮らす』

 つまり、東大の調査団が来たことに始まるこの話は、なぜかしら商社のオッサンの酒池肉林ばなしを挟んで、最後は日本のアカデミズムである東洋史学へのある種の評価断定に終わるのである。

  呪い篇

 そして、石田保昭は、のろう。

 私は、インド人官吏と同じ待遇を要求してインドにやってきた自分自身の馬鹿さかげんをのろった。へんな意地をだして給与改訂願を提出しなかった自分をのろった。また、外国人がインドで、三一〇ルピーの収入で、食事、部屋代、敷金、計六四五ルピーを支払わなければならないことに少しも神経をはらわない校長をのろい、事務長をのろい、インド政府をのろった。

「何ゆえに」?

この石田保昭、『インドで暮らす』の冒頭にある、蝋山芳郎が書いた序文が小谷野さんが興味、あるいは疑問をもった。なぜこんな「ひどい」文章を序文で載せるかと。例えば上の商社マンの話との関連を踏まえて、蝋山芳郎は書いている; 

石田君のような二七五ルピーという低額所得者は、当然のこと、日本人コロニ―から離れ、孤独のなかに、生活していかざるをえない。ときには冷房のバンガローに住み、冷蔵庫、自動車、自動車をもつほかの日本人の生活を横目でみながら、彼らの暮らしをぜい沢な生活として(中略)、思わずうらやむ気持ちになって、ひがんでみたくもなろう。また自分が招いた生活であって、他人に責任を転嫁すべき筋合いのものでないにしても、そのようなねたみの感情のとりこになるのもいたしかたなしと理解できる状況のひどさなのである。  石田保昭、『インドで暮らす』の冒頭にある蝋山芳郎の序文より

こういう物言いを小谷野さんは「序文に書くことじゃないというような感じの文章」と指摘している。

おいらは、以下の理由からこの序文は蝋山芳郎の「親心」なんじゃないかと思う。そして、この一見失礼な序は岩波の編集者からの依頼なのではないかと邪推する。

①まず、この新書の刊行に先立ち、石田保昭はトラブルを起こしている。すなわち、1961年頃、岩波の雑誌『思想』で現代インド知識人論を書き、インド人から批判を受けている。そもそもその石田のインド知識人論がインド駐在経験にかさをきた印象論のようなものだったと、今から見れば、推測できる。

②当時、1960年代初頭、岩波新書や『思想』に執筆できるのは、相当の文化人か大学教官であった。例えば、この1962年の時点でのインド記は堀田善衛の『インドで考えたこと』(1957年)[関連愚記事: 【堀田善衛が『インドで考え』なかったこと】]、海外記という観点からは、小宮隆太郎、『アメリカン・ライフ』(1961年)などある。堀田は、かっぱらいだったけど、芥川賞作家だし、小宮は当時東大助教授だ。この頃の岩波新書の刊行点数は極めて少ない。 

③つまり、無名な石田が、しかもドクターの試験に落ち、インド滞在という経験だけで書いたものを出版するかどうするか編者者・出版社で議論になったのではないだろうか?出版をしたい担当編集者は、他の編集者、出版社側そして岩波で本を書きたいと願う凡俗なあまたの文化人・大学教官などの作家予備軍の目を気にしなければいけない。

④そこで、石田保昭、『インドで暮らす』出版をしたい担当編集者は、この本やそれまで書かれた石田の文章に「偏り」があることをあえて認め、それを自覚していることを表明するために、思わずうらやむ気持ちになって、ひがんでみたくもなろう。また自分が招いた生活であって、他人に責任を転嫁すべき筋合いのものでないにしても、そのようなねたみの感情のとりこになるのもいたしかたなしと理解できる状況のひどさであったと、蝋山芳郎の「親心」としての序文を巻頭に載せることにしたのではないだろうか?それを進めたのは担当編集者であり、その動機は、印象論に基づくインド論への批判をかわすための保身的なものである、とおいらは邪推する。


▼ 

上記の「東京大学インド史蹟調査団」の代表として来たのが、荒松雄 (関連愚記事: 若泉敬 荒松雄 インド1952)に違いない。

 (その成果は現在ネットで見れる; 東京大学東洋文化研究所所蔵 デジタルアーカイブ デリーの中世イスラーム史跡:図面・拓本・地図集成 インド史跡調査団 )

東京大学インド史跡調査団は、山本達郎(団長・現東京大学名誉教授)、荒松雄(副団長・現東京大学名誉教授,歴史学)、月輪時房(現聖心女子大学名 誉教授、考古学)、三枝朝四郎(写真撮影)、大島太市(写真測量)の諸氏から構成され,1959~60年、1961~62年の二回にわたって現地調査を実 施しました。 (情報元: デリーの中世イスラーム史跡:図面・拓本・地図集成とは

『インドで暮らす』にも書いてある。

調査団の先生はときどき私をまねいてごちそうしてくれた。だが私には、日本から持参の食料も胃に苦しく感じられ、私は調査団のニューデリー滞在中、彼らのやることを他人の目で見ているようなことになったのだった。

恐らく、その石田を招いて日本からの食料を恵んでくれたのが、荒松雄ら偉いセンセたちだ。そして冒頭にも書いたが、彼らこそ石田保昭をドクターコースの試験に落第させた御先生たちでもある。

ただ、石田はひねくれて(?)傍観者きどりではよろしくなかったかもしれない。なぜなら、その時石田が就任していたインド国防省の外国語学校に日本語教師のポジションに、その数年前に就いていたのが、荒松雄だからである。恐らく、過酷なデリーで日本語教師をやっている石田を荒が気に掛けないはずがない。なぜなら、東大東洋史学は、日本の他のあらゆる組織と同様に、ムラ社会であるに違いないからだ。荒はムラ人として、同じムラ人、しかも同じ役職に今ついている石田に気遣いしないはずはない。

でも、石田はムラ人として「素直」になれなかったようだ。つまり、積極的に「東京大学インド史蹟調査団」の仕事を手伝い、大センセに媚を売り、あまつさえ、潜りんで込んでしまって、日本でよいポジションを得ようなどいう魂胆は見えない。石田のしたことは、私は調査団のニューデリー滞在中、彼らのやることを他人の目で見ているようなことになったのだった。

その理由は、「時がたつにつれて疑問がわきはじめた。日本が中国を侵略していたころ、京都大学でも東京大学でも、東洋史学は戦争に反対もせず象牙の塔にこもって沈黙を守っていたといわれる。」という意識を持っていたからだ。おそらく、へんな意地をだしたに違いない。