いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

モンドリアン再見; 四半世紀ののちに

2012年07月22日 21時07分07秒 | 欧州紀行、事情

 
    ― ハーグ市立美術館、モンドリアンブース―


   ― ハーグ市立美術館―

オランダの辺鄙な街での出張業務の後、アムステルダムへの帰途、ハーグで途中下車。

ハーグ市立美術館はモンドリアンのコレクションをもっている。ただし、ニューヨークブギウギ(google)など最後記の作品以前のコレクション。習作からある。

●  もちろんハーグ市立美術館はモンドリアンコレクションだけではなく近世以来のオランダ絵画が展示してある。特に解説で印象深かったのは、オランダでは近世、painting industryが発達したのである、との文句。 industry!

さらには、現代美術の展示も強烈に行っている(例えば、図Z)。おいらが不意打ちを食らったのが、先日ネットで話題になっていた「ラジコン猫」。すなわち、交通事故で愛猫を失った"アーティスト"が、その愛猫を剥製にしてしかもラジコン仕掛けにして「作品」としたもの ( google)。 日頃、キチガイだなんだと奇を衒っているおいらもドン引きの作品。あったさ。全く、不意打ちに目に入ってしまった。その猫と目があった。どうやらビー玉の 目を入れ直してあるらしくまんまるとひらいた目を見てしまった。でも、それ以上見ないことにして、去った。もちろん、画像なし。

 図Z

■ 1987年

今回ハーグ市立美術館で見たモンドリアンコレクションを前回おいらが見たのは四半世紀前だ。1987年。宮城県立美術館 (関連愚記事:仙台参り【2009】 川内・宮城県立美術館 )。

当時の記録を見ると、おいらは1987年10月3日(土)に仙台市川内の宮城県立美術館で開催のモンドリアン展に行っている。午後3時。昭和の時代だ。記録を見ると、土曜の午前は授業に出ている。土曜は半ドンという昭和の時代!

モ ンドリアンをどうして好きになったか覚えていない。ただ、西部邁の『ソシオ・エコノミクス』の表紙がモンドリアンの『赤・黄・青のコンポジション』であっ た。この表紙でモンドリアンを知って好きになったのか、元々モンドリアンが好きで西部の本にひかれたのかは覚えていない。もっともこの本は1975年刊行 である。

このモンドリアンを表紙に採用したことについて西部邁は1987年に書いている; 

私は自分の最初の書物にモンドリアンの絵を使用した。一五年前の私がフォーマリズムの危険についてまだ無頓着だったともいえるが、それ以上に、形式化への要求が私にあって根深いものであることの確認でもあった。 (西部邁、『貧困なる過剰 ビジネス文明を撃つ』 第五章 形式主義・・・・ 意味の無化)

1987年当時、西部は1980年前半から『大衆への叛逆』を出し、大衆批判へ爆走していた。その頃、浅田彰と西部邁の対談で、浅田に"偉い先生も悪しき文学に目覚める例が多い"と西部を当人の前で揶揄した。果たして、『ソシオ・エコノミクス』という美しい本を出した西部も今じゃ出す本のタイトルが『小沢一郎は背広を着たゴロツキである。』だ。ずんせいは悲しいのだ。読んでみると、おもしろかったけど。 でも、(何かから)一番"逃走"したのは西部邁センセなのかもしれない。西部邁センセが真正保守というのもおかしいし、生き方が全然真正保守じゃないと思う。"逃走"だろ。"逃走"。そして、「ゴロツキはおめぇ~さんだろう!」というつっこみも否めない。

● なぜ「近代」はオランダで生まれたのか? なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

        

なぜ近代はオランダで生まれたのか?     なぜ、ミッフィーとモンドリアンはオランダで生まれたのか?

▼ 1987年はNHKの大河ドラマで独眼龍政宗を放映した年。おいらは見なかった。

【政宗公とおいら】:会ったことはない。1987年・昭和62年、おいらは仙台にいた。NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」が 放映された年だ。その春、夏、おいらは仙台のお菓子工場(こうば)でバイトしていた。時給480円。その強欲なお菓子会社(従業員10人くらい)の社長夫 婦は大河ドラマによる仙台観光ブームに便乗してひともうけを企んでいた。白松がモナカから人を引き抜いて工場長(こうばちょう)とし、自分の店をたたんだ 元零細自営和菓子屋さんを職人1とし、和菓子屋の次男坊を職人2とし、ゆべしや笹かまパイなど既存の仙台菓子のコンセプトをぱくっては上記職人さんたちに 作らせて売っていた。(20年経ってその工場をセンチメンタルジャーニーしたら操業していなかった。当時からあった隣の雑貨屋に事情を聴くと、従業員との トラブルで操業中止となったらしい。あの強欲な社長夫婦を思い出し、当然と思った)。

そんな状況なので、その頃の仙台の政宗ブームは知っている。でも、おいらにとって伊達政宗っ て町内会長の先祖に過ぎなかった。全然興味なし。なぜなら、その頃のおいらは概念による全世界の掌握を試みていた (w!)のだ。町内会長はいいのだ。そもそもテレビなぞもってなかったし。仙台に住んでた頃は、青葉城址、大崎八幡宮、 瑞鳳殿など政宗ゆかりの名所は行ったことがなかった。なぜなら、彼は町内会長でしかなったからだ。なにせ、おいらは全世 界の概念的掌握を目指していたのだ

Wach Watch your step !】そして、40歳を過ぎた。全世界の概念的掌握どころか、何も掴めなかった。少年老い易く、学成り難し。筑波山麓でぼーっとしてたら、やってきた、伊達 政宗。仙台で未履修だった伊達政宗。筑波山麓で再履修せよ!だって。Watch my step ! 恐るべし、独眼竜。町内会長の逆襲。 (愚記事: 伊達政宗来ました; 霞ヶ浦湖畔・蔵福寺

▼ 2009年にはあった姿。今日もあれば四半世紀変わらぬ姿。

● 1987年からおいらがよく聞いている曲;

PSY.S - レモンの勇気 [PV]