いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

気づかずに挑戦者

2011年03月15日 19時07分30秒 | 仙台・竹雀・政宗
・地震関係の内容を閲覧される皆さんへ、記載されている情報には、未確認であったり誤りがある可能性があることを考慮してください。

■「津波」の語源

今では世界共通語になったtsunami。日本語としての語源について、wikiの津波の項にあった;

「津波(浪)」の語が文献に現れる最古の例は『駿府記』(作者不詳、慶長16年 - 元和元年)で、慶長16年10月28日(1611年12月2日)に発生した慶長三陸地震についての記述政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である

そうなのだ、津波という言葉は史上初めてこの仙台伊達領でおきた慶長三陸地震(wiki)で発生した大波に対して造語され、用いられたのだ。

危ない沖積平野、恐ろしい海岸

現在は日本人の多くが沖積平野に住んでいる。実はこれは「最近」のことである。どれくらい最近かというと戦国時代のあと、江戸時代から。逆にいうと近世日本とは人々が沖積平野に山間部から降りてきてつくった文明といえる。

wikiにも書いてある;

災害に脆弱な沖積平野 [編集]

沖積平野は災害に対して脆弱な地形であるものの、日本においては人口の大部分が沖積平野に集まっている。

* 地盤沈下が発生しやすい地質状況である。地下水利用に限らず、トンネルなどの地下掘削に伴う揚水においても、沈下現象が発生しやすい。昭和50年代頃までに発生した地盤沈下によりゼロメートル地帯となり、このため水害が発生しやすい状況にある地域がある。
* 地震の際には地盤の液状化が発生しやすい地質状況にある。新潟地震の際には、海岸に近い場所で液状化現象が発生し、建築物の倒壊がおきた。
* 地震の際に揺れが大きくなることから火災の発生が危惧されている。関東大震災の際には、下町地域(沖積平野)で大規模な火災が発生した。


でも、上記に書いてないのが、川の氾濫。そして、今回の津波。

こういうリスクの高い沖積平野になぜ人々が山からおりてきたかというと、土地があって水田がつくれるから。

伊達政宗も山間部(海から遠い)の岩出山から仙台に下りてきた[#1]。っていうか何もなかった土地に「仙台」をつくった。それでも、山間部住まいの本性は簡単には抜けないのか、お城は高いところに作った。街も結構海岸からは遠い。津波はこない。

ちなみに政宗が隠居したあと、つまり仙台の河岸段丘の最頂部である青葉山にある仙台城を出て、若林の若林城に居した。この若林は、今、数百の遺体が流れ着いていると報道されている若林区の「若林」である。最後まで挑戦者であった政宗は海へ海へと進んでいったのだ。

伊達の藩政時代にもどんどん海岸部へ水田の耕作が進んでいたらしい。

そして、近代になって海岸付近への人の居住は進み、最近でも進行形であったと知る。


名取市、杜せきのした団地の紹介。浸水したと報道される仙台空港のそばに出来ている新興住宅地らしい。幸い、今回津波の被害はなかったらしい(杜せきのした 駅周辺は津波の被害はありませんでした[ブログ・ママになっても女の子を楽しむ様])。

名取市のweb siteをみると、環境・防災というベージがるのだが、書かれているのは;

防災

* 危険物を取り扱うときは
* 火災予防行事に参加を
* 家庭用消火器は
* 火災予防の相談は
* 火災警報が発令されたら

と、地震や津波には全く無頓着だ。たぶん、津波が来るとは想定していなかったのだろう。ここは名取で三陸海岸のようなリアス式海岸ではない、広い砂浜だから、くらいの"先入観"があったのではないか?もちろんそういう先入観は普通の""偏見""で、おいらもそう思っていた。

でも、歴史的には「政宗領所海涯人屋、波濤大漲来、悉流失す。溺死者五千人。世曰津浪云々」である。政宗領所に住むには、その前提として挑戦者であることが求められているのだ。うっかりしていると、気づかずに挑戦者となっているのだ。

津波のあとさき;


もしかして、杜せきのした団地に津波が及ばなかったのは、海岸沿いの水田レーンで津波は止まるという都市設計思想の勝利の結果かもしれない。つまり、自覚的挑戦者。


#1 伊達家のライバルで伊達家に滅ぼされた大崎氏は内陸の大名である;愚記事:大崎の復活 -仙台参り2006 ③-