いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

シカゴ・アヴェニュウーと呼ばれた日、あるいは、they shall return

2011年03月22日 20時20分55秒 | 仙台・竹雀・政宗


 -仙台市、木町通り(2005年撮影)。占領時代、シカゴ・アヴェニュウーとよばれた。-

今夜も、地震に便乗した罰あたりネタ。震災エンタメ。全然、エンターテイメントになってはいないが。

おいらが仙台に住んでいた昭和末期-平成初期は、東京ではバブル真っ最中であったであろうが、仙台はバブルの登り時期であった。バブルが田舎に波及するには多少の時間がかかったのだ。つまり、杜の都でも地上げ屋が活躍し始めたころだ。それでも、散歩していると "戦前" がまだ残っていた。戦時中、仙台はB29の戦災にあった街なので、残った戦前の文物を探すのがおいらの散歩の楽しみだった。その楽しみがよく味わえるのが木町通りだった。たぶん、この通りの幅の狭さは江戸時代のものを残しているのではないだろうか?仙台は近代に入って道路拡張を行い、江戸時代以来の通り、街並みは消されていたのだろうと思う。もっとも、その道路拡張の大義名分が戦災対策であったと思われる。すなわち、延焼を防ぐため通りを拡張したのだ。上記画像は今でも残る戦前からの?木造の家屋と地上げされた更地。昭和末期はまだこのような戦前からの?木造の家屋が連なっていたのだ。

おととし仙台参りに行った時、初めて知った。米軍による占領時代に仙台の主だった通りには英語名がつけられていたと。仙台に住んでいた時はそんな話は全く聞かなかった。木町通りは、なぜかしら、シカゴ・アヴェニュー。南北に走る通りはアヴェニュー、東西に走る通りはストリート。つまり、青葉通りも広瀬通り南町通りも定禅寺通りもみんな英語名がつけられていたのだ(仙台歴史民俗資料館)。
(追記、上述に"嘘"がある。下記図をみると終戦直後は"広瀬通り"や"青葉通り"のあの大通りはないのだ。あれは戦後道路拡張でできたのだろう)

 

■Occupied Sendai

仙台は米軍の第11空挺団に占領された(愚記事;ダサいスカジャン着て 【仙台参り2007番外】 )。

アイケル・バーガー将軍(wiki,英語日本語)の仙台来訪動画。(General Robert L. Eichelberger visits 11th Airborne Division installation in sendai,Honshu in Japan)

これは1945年10月3日に仙台に来た時の映像らしい。仙台のどこなのか?考えるに列車の引き込み線がある基地であるので、苦竹の陸軍造兵廠なのだろう(wiki,仙台駐屯地)。映像にある"ホスト"の日本人は無条件降伏した帝国陸軍の関係者と思われる。この基地は朝鮮戦争を経て、自衛隊基地となる。映像にある"ホスト"の旧帝国軍人の少なからずも自衛隊に参加したのだろう。

で、このニュース;
痛いニュース;

被災地支援のアメリカ軍がかっこよすぎると話題に

「もう大丈夫だ。自衛隊は明日から降りてこい」、と。 (関連愚記事;夷(えびす)を焼く弾(たま);焼夷弾

⇒⇒ 安全確認ができないと着陸拒否していた自衛隊を横目にgoogle

戦争でない災害でも禁治産国家なんだなにゃ~、ぬっぽん。

【USA!】米軍が水58㌧、食料1.9㌧を被災地に配布

やはり、なんか、情けないクニに生まれたんだなぁ~って感じ。

2万余人の非業の死より、「やはり、なんか、情けないクニに生まれたんだなぁ~って感じ」を優先させる情けないおいらが、発信すました。

おやすみなさい。

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