いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

「科学技術」、「・」中黒問題、あるいは、周(あまね)の蹉跌

2010年10月05日 19時56分32秒 | その他

―キンモクセイの香りを嗅ぎながら仰いだ空―

■科学か?技術か?

「科学技術」ということばがある。以前は「科学・技術」と真ん中の「・」(中黒)が入っていたとのこと。村山内閣の"科学技術基本法"のときから「・」(中黒)がなくなったらしい。この問題は後述。

さて、山中センセ、残念でした。ご本人はどうとも思っていなかったのかも。でも、体外受精屋さんがノーベル賞を授かったのを見て、やっぱり"臨床における実績"だよなと思ったのかもしれない。ところで、ロバート・エドワーズは科学者か?技術者か?のどちらなんだろうか。愚問であるが、冒頭の科学技術問題の前ふりとして考える。まず、愚問である理由の第一は、科学と技術が二分できるか?ということ。科学と技術はどういう関係にあるのか考えなければならない。

「科学技術」という用語は科学と技術を混同している、あるいは科学を技術に従属させているからよくないという意見がある。さらに、科学と技術を分けろという意見もある;

「科学技術」と「科学・技術」の違い 元村有希子 pdfで1.8M、重い!注意

評価に不可欠な科学と技術の区別

まずはあえて科学と技術を区別する。すると体外受精のロバート・エドワーズさんや、そしてiPS細胞の山中さんは、技術の方に大きく傾くのではないだろうか。なぜなら、彼らは知っていること以上のことを実現したから。『技術とは,「(社会から)解決を要請された問題に対し,解決に至る方法を与える」こと』という基準にも彼らは合致する。山中センセだって、生物発生の原理を知ることよりは「患者さんのため」と強くおしゃっているし、ロバート・エドワーズさんだって不妊"患者"のためにがんばったのだろう。ロバート・エドワーズさんの「科学」的な業績はなんだろう?wikiを覗くと、彼の業績は"体外受精の技術の完成"と書かれている。技術だよ、技術。

■上記リンクの毎日新聞記者元村有希子による「「科学技術」と「科学・技術」の違い」に書いてある;

基礎科学の成果から技術が生まれたことは歴史の事 実だ。そのおかげで私たちは文化的な生活を送っている。

本当だろうか?例えば今熱力学は物理化学ともいって物質の状態変化を把握する上で欠かせない基礎科学である。この熱力学は、蒸気機関という技術が出現し、その技術によって実現される現象を理論化するため成立・発達した。別にエントロピーという基礎科学の成果から蒸気機関が生まれたわけではない。

今後、基礎生物学者は山中カクテルの因子が細胞のリセットをどういうメカニズムで可能にするか研究するだろう。しかしながら、お医者さんという"医療技術者"が経験的に細胞をリセットさせる前に、遺伝子やタンパク質に詳しいはずの基礎生物学者がこの因子が細胞リセットに効きますよと指摘したわけではない。このリセットメカニズムには遺伝子やタンパクが主役にも関わらずである。どうした!? 科学者!

もちろん、基礎科学から生まれた技術はある。古典物理学に基づくロケットなどはそうだろう。でも、常に基礎科学が先だっているわけはない。むしろ、人間が自然をいじくりまわして(技術的行為!)出てきた驚愕の事実を解明するために科学が出動、面目躍起という例が多いのではないだろうか?

一方、人間が自然をいじくりまわして(技術的行為!)出てきた驚愕の事実に頼らずとも、純粋な自然の驚愕の事実を解明するために科学もある。自然誌系科学。たぶん、この筋の研究者が、科学と技術を分けろと主張している気配がある。もちろん悪いことではない。

■科学と技術を分けろと主張している人たちは、マスコミなど世人を批判している。マスコミや世人が科学と技術を混同していると。それも日本のマスコミと世人が混同している、という口ぶりである。科学は応用なぞ考慮しなくていい文化的いとなみであると、科学と技術を分けろと主張している人たちは主張する。それはそれでいいだろう。でも、もし彼らがノーベル賞が好きならば、ノーベル賞の選考基準は、彼らの嗜好とは異なるだろう。

なぜなら、特に最近、応用という社会での実績を重視していると思わざるをえないからだ。医学・生理学賞だから応用重視なのだろうという反論は次の再反論を受ける。すなわち、最近の日本人の化学賞だって、野依センセ、白川センセ、田中サンとみんな受賞対象は商品化している。皮肉なことに、この中で売上げが最も低いのがメーカーの田中サンの質量分析計だろう。すんげぇー売れなかったらしいね。下村センセだって蛍光が使いでがあったからノーベル賞もらったのだろう。この点、一番の"浮世離れ"の理論家が、30年前の受賞の福井センセということになる。この手の理論系の受賞は減っているのではないだろうか?

▼周(あまね)の蹉跌(さてつ)

日本語の「科学・技術」の由来はscience and technologyの訳とのこと。ここで錯乱している。technologyはロゴスのlogyがついているのだから、「学」のカテゴリーに入る言葉のはずである。technologyに技術という訳語、これは和製漢語である、をあてたのは西周(にしあまね)らしい。せめて、工学にすればよかったのに。

(λογοσを含まない philo-sophyを哲と訳した周は、学=ロゴス=logyという連想がなかったと推定できる。ギリシア語まで手(アタマ)が回らなかったかわいそうなアマネ!)

もっとも手元の和英辞典を引くとtechnologyの項の筆頭に"工学"がある。science and technology =理工学、にすればよかったのにね。そうすれば両方とも学問。「科学・技術」じゃ、<目的・手段>みたいなちぐはくな感じがする。さらに、「・」中黒がとれたら、scientific technologyのように受け取れる。もっとも、繰り返すと、ノーベル賞選考委員会はscientific technology、つまりは科学に裏付けられた、社会に寄与する技術を評価しているのではないかと、おいらは、睨んでいる。

▼「科学技術」癒着の現実;

科学研究に技術、この場合は実験技術、は必須である。紙と鉛筆でできる理論研究でないかぎり。さらに言うと実験科学は技術が命である。研究者の命運は実験技術の習得と実験技術開発能力と実験の遂行にかかっている、といってもいいのではないだろうか。実験技術開発能力が重要だ。他人と同じルーチン実験ばっかしていては、抜きんでることはできない。多少アタマ悪くたって、新しい実験系で手足を的確に動かせばなんとかなる。逆に、小賢しくても、不器用なら終わりだ。違うかな?

●今日のユーレカ! 周(しゅう)の遊学、あるいは物見遊山!

周恩来が若き時日本に留学していたことは有名。そんで、筑波山にも遊びにきたんだとさ! 遊学する周恩来! Google; 周恩来 筑波山

大陸、すなわち山がない地域、から来た周恩来が筑波山登山の最中につまづいたのかという問題は現在調査中ではある。