いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

占領地域を闊歩する日帝学徒/役人

2007年12月25日 20時22分12秒 | 日本事情

-- 昭南日本学校 --  昭南はシンガポールのことで、日本が勝手に付けた呼称。

各地に着くと、その時その場所でいちばん偉い人が会ってくれるわけです。例えば香港でいうと、なんとか中将がいました。各地にいるんです。シンガポールでは・・・・。

中村(聞き手)  山下(奉文)さんですか?

宮澤      山下さんよりもっと偉い人です。総軍の大将がいるわけです。

中村      寺内(寿一)。

宮澤      そうです。

『聞き書 宮澤喜一回顧録』

■休みに本読んでたら、宮澤喜一さんは昭和17年(1943)夏に2ヶ月もの間各省からの文官集団(10数人)の随員として、陸軍が用意した飛行機をお抱えとして、香港、上海、シンガポールなどの日帝の赫々たる勝利の証である占領地域を「漫遊」したらしい。

本人が「本当に梅雨の晴れ間みたいな短い二ヶ月間、豪華な旅行をいたしました」と回顧している。

ということは、宮澤喜一さんはリー・クワンユーセンセとシンガポールですれ違っているのである。


Li and Miyazawa in 1998

当時のリー・クアンユーセンセの生活;

  私が初めて日本兵と接触したのは、カンポン・ジャワ・ロードに住む母の家に行く途中だった。ブキット・ティマ運河にかかるレッド・ブリッジを渡ろうとすると、たもとに歩哨が行ったり来たりしていた。周りに四、五人の日本兵が座っていた。分遣隊の隊員だったのだろう。私はオーストラリア兵が捨てた広い縁の帽子をかぶっていた。暑い日差しをよけるために拾ったものである。

 私ができるだけ目立たないよにして日本兵の脇を通り過ぎようとすると、一人の兵士が「これこれ」と言いながら私に手招きした。近づくと、その兵士はいきなり銃剣の先でその帽子をはねのけ、平手打ちをし私に跪くように仕草をしてみせた。私が起き上がると日本兵は私が来た道を戻るようにに指図した。それでも私の場合は軽くすんだほうである。新しい支配者である日本人の礼儀を知らなかったり、日本軍歩哨の前で敬礼しない者は炎天下で何時間を座らされ、頭の上で重い石を持たされたりした。 
 『リー・クワンユー回顧録』

■さて、ウイスキーボンボン問題;

そうなのだ、ポリシーがあるのは、リーセンセだ。イラクのクウエート侵略の時(湾岸戦争)、日本が自衛隊を出す出さないと日本国内で世論を二分させ大激論が起きたとき、リークワンユーセンセは、日本人にはウイスキーボンボンでさえ与えてはだめだ。酒乱の本性が惹起されるから、との主旨をおっしゃられたと、おいらは、記憶する。

この出所は;

 九一年、マスコミが私のある言葉を引用した。カンボジアの国連平和維持活動のために日本の再軍備を許すのは「アルコール依存症患者にお酒入りのチョコレートを与えるようなもの」といったのである。宮澤が首相に就任する直前、東京で自民党の首脳陣と昼食をとったとき、宮澤が発言の趣旨を尋ねてきた。日本文化を変えるのは難しいという意味だと私は答えた。日本人には完璧を求める習性があり、生け花であれ日本刀作りであれ、そして戦争であれ、何事でも極限まで行ってしまう。もちろん三一年から四五年の間の行為をいまの日本が繰り返すとは思わない。中国が原爆を保持していることからも無理であろう。(中略)九二年一月、首相になって最初の施政方針演説で、宮澤はアジア太平洋の人々の「耐え難い苦しみと悲しみ」に対して「深い反省と遺憾の意」を表した。タカ派の中曽根と異なり、宮澤はハト派だった。宮澤は日米同盟を維持しながらも日本の再軍備には反対の立場をとった。彼の英語は流暢で語彙も豊富で忌憚なく意見交換ができたと思う。物事の理解が早く、納得できないことは丁寧な口調で反論してきた。首相になる以前から宮澤とはいい友人同士であった。 『リー・クワンユー回顧録』



『占領地域を闊歩する日帝学徒/役人』の日帝学徒編は、あすた。