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いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

皇国の荒廃この一帯にあり

2005年03月09日 20時47分37秒 | 日本事情


  昭和20年3月18日、終戦工作開始、あるいは、終戦ピクニック計画

昭和20年3月18日、東京大空襲の8日後、惨状を視察する ひろひと さん。

深川富岡八幡宮あたりを歩かれたらしい。

60年前の今夜、東京の下町がB-29の焼夷弾で焼き尽くされた。生きながら炎に焼かれ死んだ人は10万人といわれている。

さて、その一般人を焼き殺したこの作戦は用意周到に計画されたもので、日本の、特に東京下町の、家屋は木造なので、爆弾で吹き飛ばすのではなく、油脂を撒いて炎上させ家屋も人間も焼き尽くせばいいという考えである。そして、実行された。焼夷弾というのは油が撒かれ、発火する。人の上に焼夷弾がくると油を浴びそれに火が着く。そして火達磨になる。そういう体験して生き残ったひとの証言を知りたい人は田中美知太郎の自伝をお読みいただきたい。

指揮者、ルメイ。


--小林よしのり、『戦争論』より。--

これだけなら、別段ブログに書くこともないだろう。戦争なら殺されることもあれば、あまつさえ国家総力戦であったのだから、銃後もひったくれもない、と。

しかし、このルメイ、昭和39年に、
勲一等旭日大綬章
を日本政府から授与されている。

叙勲の立役者は当時の佐藤栄作首相、そして航空自衛隊の源田実とのこと。もちろん、叙勲の理由は東京爆撃ではなく、航空自衛隊の創設である。叙勲への経緯はよくわからないが、勲一等旭日大綬章 という高い位の勲章なら、天皇の事実上の裁可が必要であったのではないだろうか?違うという意見もあるが、その人は証拠を挙げていない(例えば、西岡朗『保守主義者の信義を問う』)。
 逆に、ひろひとさんが承認したのでは、という傍証としておいらが注目しているのは;中曽根康弘氏が首相時代岸信介氏の正二位大勲位菊花賞の叙勲を、総理府賞勲局からの奏請案に基づいて、直接ひろひとさんに奏請した。首相はひろひとさんの前で功績調書を読み上げるそうだ。この件(岸元首相)については、ひろひとさんは「やや時間をかけてお考えになられて、『そういうことであるならば承認する』と」承諾したとのこと(『自省録』中曽根康弘 2004)。
 菊花賞と旭日大綬章では位が違うので簡単に推定できないが、旭日大綬章とは言え、さらに航空自衛隊の創設に尽力したからと言って、一般人を10万人も焼き殺した人間に焼き殺された民の君主が褒章するとなれば、皇室の権威は陰り、もの言わぬ庶民の人心も離れていくであろうことを、ひろひとさんは心配しなかったのであろうか?


勲章あげちゃいました!

叙勲認めました。

 さて、ひろひとさんのルメイ褒章問題は極めて意義深い思考をおいらにさせる。

●航空自衛隊の創設に尽力したというが、自国の無辜を10万人も焼き殺す人間に、自国の防衛について助けを請わなければならなかった哀れさ。戦後日本の航空自衛隊は無辜をみだりに殺す将軍に指導され創立した、「植民地」軍であることの改めての確認。

●上記小林よしのりの『戦争論』ではルメーの鬼畜性について言及しているが、戦後の航空自衛隊との関係には言及していない。つまり、航空自衛隊こそ元祖「ポチ保守」であることには言及していない。日本の自衛隊を自衛隊ではなく 米衛隊 だ!といったのは江藤淳である。 自衛隊こそ元祖ポチ保守であること。

以上のことは、既にわかっていたことではある。

●最後に、恐ろしい仮説が、頭に生じざるを得ない。

ひろひとさん こそが、元祖ポチ保守 ではないか!?ということである。

この考察については後日書きたい。