alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

社会問題とサードプレイス

2010年12月09日 | サードプレイスとしてのカフェ

 子育てはよく出口のないトンネルに
たとえられるのだそうで 今日は朝から
新聞に虐待に関する特集が載っていて
他人事じゃないけれど でもどうしたらいいんだろう?
最近私はだいぶ穏やかに子育てできるように
なったけど、、、と思ってた。


 ところが子育てにはムラがあり
この3週間くらいだいぶ蓮太郎との
つきあい方がわかってきて私も変わった!と
思っていたのに 今日は一次保育をキャンセルして
しまったからか それとも彼がお昼寝を
どうがんばってもしなかったからか
だんだんと私の機嫌も悪くなり
ひさびさにムカッときてしまう。


 ふざけんなこのやろー!!!
と思いたくなるときは だいたい
密室育児の時で 外には出てても
いつもより家にいる時間が長かったりとか
行ってみたら自分にとってあまり得るもののなかった
場所行くのに やたらがんばって時間を
気にして行った時 で
なんだかどっちもやるせない。


 今日は近所のカフェのおばちゃんの家で
私の近所のサードプレイスについて話をしてたのだけど
ここでは「場をつくる人」と「実際その場を運営する人」の
二人の関係性がうまくいってないままで
ほぼ店から姿を消した そのおばちゃんの家にいくたび
私は「だけどあの人はね なんど言ってもこうなのよ、、、」
という愚痴をきかされるはめになる。


 そういいたいのもわかるけど
そうだ 私が正しいんだと主張したいのもよくわかるけど
(私も浜名湖ユースでそんな経験をしてたものだし)
だけど ちょっと待ってください。
サードプレイスというものは 地域の人には
そこしかなくて 本当に大事な場所なのだから
喧嘩している場合じゃないって!!
あっちがいいとか こっちが悪いとか
いいあってる間に 沢山の人が
どんどん居場所をなくしてる
その重要性に もっと気がついてほしいんです
あなたしかいないのに あの場所しかないというのに
日々雰囲気が悪くなってく
そして足は遠のいてくけど
遠のいた足は家の中にあるだけで
家の中しか居場所がないと
人にははけ口がなくなって
自分ですべてを抱え込むから
ものごとが悪い方向にみえて進んでく


 サードプレイスやみち空間が
昔の路地のような空間が もっとあったら
子育てだって介護だって きっと全然違うだろうに
家があまりに大きくなって
私たちは疲れ果ててる
掃除して 洗濯をして 掃除したと思ったら
部屋中をぐちゃぐちゃにされ
気がつけばもうお昼になって
約束の時間に遅れまいとあわただしく飛び出して、、、
私 何やってるんだろう?と思いませんか
こんなに家を掃除して 誰が来るというわけでもないのに
誰かが来たって 別にたいして気にしてないのに
大きくなってしまった家に 家事 に
「主婦」になってしまった女性は
いつだってとらわれている。

 
 それが人生 なのかなあ?


 私はとても空しくなった


 フランスにいって 少しは光が見えたから
かろうじて今 生きているけど
今日こんな日々がずっと続くことを考えて
かつての私を思い出し やっぱりぞっとしてしまう。
人間希望がなければやっていけない
私は本当にそう思う。


 子供がとっても可愛いときは
こんなかわいいなら一人だけなのはもったいないとか
思うけど 子供がとっても手がかかるときは
私は必死で求めたほんのささやかな自分の時間を思い出す。
2ヶ月の時はおっぱいの前にお茶を飲むことだけが
私にとっての抵抗だった。3ヶ月のころはブログだけが
私が私であることの証明だった そして今 は?
一次保育をキャンセルしたら こんなにも辛いんだなあ


 自分が自分自身であれて 少しほっと息を抜けて
かつアップビートで元気になれる場 それが
サードプレイスらしいけど 日本には
「ふれあいの居場所」はあっても
どうもこの「アップビート」なサードプレイスは
あんまりないような気がするんだな。

 オルデンバーグは「そこでの会話こそが
素晴らしいということほど、サードプレイスを
よく表しているものはないだろう。
ここでの会話は活き活きしており、
火花を散らし、色彩に富み、没頭させられるものなのだ。
サードプレイスでのつながりの喜びは、
何よりも笑顔やキラキラした目の輝き、握手をしたり、
相手の背中をポンとたたいたりという様子から理解できるだろう。」
(オルデンバーグ « the Great Good Place »p26)と言っているけど
そんな場があったなら もっと元気になれるだろうに
日本のサードプレイスはあまり元気な場所ではなくて
どちらかというと愚痴を言う場で 変化といえば
誰かの健康状態の変化であって おじいさんが
手術を受けることになったとか 誰々さんが回復したとか
蓮太郎がしゃべれるようになったとか
どこそこの子は保育園にいくらしいとかで
なにか面白いことをやってみよう!
つくりだそうという


 そう ワクワクする そんな雰囲気は
なかなか感じられなくて


 それがとっても悲しいなあ


 そしてみんなこう言う訳だ
「こんなものよ 人生なんて、、、」

 ボーヴォワールはこう言っていた。
「大人達は口を揃えてこう言うのだった
人生は楽しくない。人生は小説のようではない」と、、、


 だけど彼女は社会を変えた。
彼女の人生はどう考えても面白そうだなあと思う
一方で社会を変えた人もいるけど
基本的には諦めムードがただよっている
だけど私は先日言った。「カフェこそ
最後の砦であってほしい」のだと。
カフェがそういう場でなけりゃ
どこで夢を見れるのだろう?
カフェがそういう場でなけりゃ
だれが変わり者を受け入れてくれるのだろう?
カフェがそういう場でなけりゃ
どこで創造が起きるのだろう?
カフェもサードプレイスも本当に
すごい力をもっているのに
やっぱりまだまだ そう認知されてないようで

 私はきっとカフェやサードプレイスが
様々な社会問題の解決の糸口になると思う
そこは愚痴をいう場なだけじゃなくって
愚痴が「じゃあこんなことやってみよう!」という
ワクワクに転化する場であってほしい
そんな場が いつか日本中に たくさんの
人がいける場所につくられたなら
もっとみんな いい顔で 
笑えるようになるんじゃないかと思うのだけど

 そんな想いを大切に
2冊目の本ができるよう
これからがんばっていきたいです

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