alternativeway

パリ、カフェ、子育て、サードプレイス、
新たな時代を感じるものなどに関して
徒然なるままに自分の想いを綴っています。

切ない

2012年01月18日 | 福島見聞録


 今日は久しぶりに「現実世界」に舞い戻り
今年初のカフェでの仕事だったけど 頭の中は
上の空 で 福島が頭から離れない。


 まさかなあ 何かすごいことになるような気はしてたけど
ここまで人生を揺さぶられるとは、、、この滞在の最中
どこかで私の中にスイッチが入り それは活動家だった
自分としての想いなのか 書くことが少なくとも可能なはずの
自分というのを認識したからなのか 何故なのかはわからないけど
私の中ではずっとフクシマのことがぐるぐるぐるぐる廻ってる。


 「僕が17歳だったときにね、阪神大震災のボランティアに行ったんです。
それで帰りの飛行機の中、2時間半泣いたんです。札幌には
普通の日常がある。友達も家族も 変わらない日常がある
そこへ帰る道のりの中 僕は涙がとまらなかった。
今もそんな時を思い出すけど でも17歳の僕と今が違うのは
少なくとも今の僕には何かができるだろうということ。
あなたもそうですよね?きっと飛行機でそんな気持ちに
なるだろうと思います」と 福島でお世話になって
東京からよく福島に足をのばしている方がソフィーに向かって言っていた。


 「今の僕には少なくとも何かができる、、、」


 そんな言葉は かつて私が20歳だったころ、
エコリーグの先輩が「学生は社会を変えられなくても
10年後にこのネットワークを使って力のある人たちに
なっていたとき きっと社会は変えられる」と言っていたのに
近いことなのかもしれない。


 今の私は?私はお二方に比べたらちっぽけだけど
それでも私が書いた言葉を読んでくれる人がいる
少なくとも それを知らなかったという人たちもいる
だから私は伝えたい。少しでもそれができるのならば。


 「福島に行ったの?勇気あるね!」と脱原発会議で
ぱったり出会った友人がこう言ってきた。この何気ない一言が
どれくらいのことを意味していたのか 私にはわからない。
福島で名前をよく耳にしたバズビー博士という人は 講演を頼まれたけど
かつての仲間がチェルノブイリに支援に行って何人も死んでしまったからという
理由で福島でも郡山でも講演はしないといって 結局会津でしたらしい。
(会津は福島県の中ではけっこう線量が低いと言われているところ)

 「実際のところ フランスでは福島に行くことについてなんて
言われたの?」とソフィーに最後に尋ねてみたら
「あんたは気が狂ったのか!」ってよく言われたわ、と言っていた。

 だけどそこで暮らしている人たちがいるじゃないか!
ソフィーはそう言いたくなったし実際そう主張した。今の私も 
福島が好きで よく行ってしまう前述の彼も きっとそう思ってる。
そこに生きている人がいる。避難をしている人よりも
よっぽど多い人口が まだ福島市には残ってる。
そこにはカフェもあれば ビストロもあり おいしい居酒屋もあれば
小さな飲み屋の横町もあれば 50年やってる餃子屋もあれば
おいしい中華の店もある。素敵な子供服のお店だってある
みんな そこに 生きている。みんな そこで 暮らしているんだ


 どれほど福島や郡山が危険なのかは 私にはよくわからない。
危険だ、という人は今でも「本当のところは避難してほしいと
思ってる。特に子供に関してはそう」と言っている し
このあたりの放射線量は年間5ミリシーベルトを超えるらしい。
(それは放射線に関係するお医者さんが一年に浴びることを
許されている限度らしいけど 彼らもすごく気をつかうので
結局平均して1、5ミリシーベルト以下くらいしか浴びないらしい)


 だけどそこにも日常があり 暮らしをしている人たちがいる
彼らは?彼らのことは?誰が彼らの言葉に耳を傾けてくれるのだろう?
どんな想いで ずっとやってきたのだろう
子供は「ここは放射能がね」って自分の言葉で言うまでに
どんな気持ちで この間まで遊ばせてた場所を「もう行っちゃだめ!」と
叱っていったのだろう。「どうして?ママ 楽しいのに」と
言われた時に どれだけ泣きたくなっただろう。
彼女たちは 素敵な笑顔を見せてくれるけど その裏に
どれほどまでの苦悩と涙があったのだろう?


 私は福島の人たちに 愛着を持ってしまった。
30年日本で生きて来た中で はじめて出会った
自分でものを考えて しっかりと色んな事を考えた上で
人生の選択をしようとしている 本当に素敵な人たちだった。
子供たちだってかわいかったよ 彼らはこの後どうなるのだろう
このまま日本政府によって 置き去りにされるのだろうか
そしてまた 忘れられ 見捨てられて きらびやかな
クリスマスツリーの光で輝く東京の人たちのちょっとした一言で
傷ついていってしまうのだろうか


 放射能は目に見えない。 放射能はほこりのように
どこかに付着して風に舞うけど それがはたしてそこにあるのか
ないのかだって わからない。ソフィーは福島の誰かに
袋に入ったぬいぐるみをもらい 私にそれをくれたので
じゃあ蓮太郎にあげようと私は受け取った。
だけどそれに放射能がついているかどうかだなんて
だれにも何もわからない。「福島でもらったの」
そういうだけで?だれかは尋ねてくるだろう「放射能は?」
きっと大丈夫だといいたくっても 保障はあるかと言われてしまえば
返すすべはなにもない。蓮太郎がそのぬいぐるみを気に入っても
私は「でも一緒に寝るのはやめておこうか」と言ってみる。
そしたら「なんで?」と言われるじゃないか 放射能があるかもしれない?
そんなのわからないことなのに。私はそれを与えてあげたい
私は福島の人たちに愛着を持ってしまったから
ただ普通にお土産だよ!って渡したい。
福島のホテルで食べた朝食も美味しかったよ たとえそれが
福島産だったとしても どこの野菜かをいちいち確認なんか
できなかったけど 美味しかったのは事実だった。
測定所でボランティアしてた人が言っていた。
「たまにね くやしくってね 果物をめいいっぱい食べてやるの。
放射能がついてても。子供には食べさせないけどね。
くやしくってね!自分ちでつくったものなのに」

 その時は私にはわからなかった。
でも今ならわかる気がする。
みんな大事なものだった 柿の木も しいたけも
葉ものの野菜も 有機栽培で育てた土地も
家族との暮らしも 地産地消も とても大事なものだった
福島は ただ 他の地方と変わらない
地産地消にむかっていって 地元のものを大切にしてる
そんな土地だったんだ

 ただそうしてただけなのに
今では「福島産」はちょっとドキッとするものの代名詞みたいに
なってしまった。でも本当は 自分の知人の誰かが手をかけて
大切につくられていた。それが一瞬にして灰をかぶって奪われて
そんなものを全てばっさり はいそうですかなんて 捨てきれるわけがないだろう。
日本の国会議員や官僚の人たちは どれくらい福島のことを
知っているのだろう 彼らが「暫定値500ベクレルまでなら
安全です」というのなら 全ての福島の野菜を買い取り、社員食堂で
使ってあげたらどうだろう?福島の原発で作られていた電力は
東京の人のためのものだった。それが福島を引き裂いた。
私たちには 責任がきっとあると思う。
どういう形で 何ができるかはまだ私にはわからないけど
まず少しでも 彼らの声に耳を傾け いったい何があったのか
そうしてこれから このまま何もしないとどうなっていきそうなのか
少しでも耳を傾けてみてください。

ーーーーーー

 福島から避難したママたちのネットワークというのがあるそうです。
ここのサイトに書かれている文章は本当に震災後の福島の現状を
映していると思います。福島の人たちはもう十分に頑張っていますが
その声は国会にも日本全体にもこの1年ほとんど届いてきませんでした。
福島の方の余力は限界にきていると思います。今度は余力のある
私たちが何ができるか考えてみる番ではないかと思うのです。。。

フランスに行くなら

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