人は人に認められるために勉強し、働き、頑張る。 ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
人は人に認められるために生きている。
わが道を行く!とか何とか言って、
ワガママに生きたければ、
好き勝手に生きたければ、
人間が住んでいないジャングルか海の中で、
たった一人で生きるしかない。
共に生きること、共存社会が人間の基本だとすると、
互いに認め合って生きるしかない。
認められる術を学ぶしか生きる道はない。
恋愛も就職も、如何に認められるかで全てが決まる。
認められるために頑張ることが苦痛にならないように、
人間社会で生きるための基本の基本を徹底して学ぶ必要がある。
この学びの中核をなすのは、
相手の気持ちを考えること、思いやりを持つこと、
感謝すること、我慢すること、整理整頓など、
そして、認めるという漢字が示すように、
言葉が忍び持っている力を引き出すこと、
心と言葉の養育学習である。
間違った常識や既成の概念に妥協せよ!ということではない。
普遍に通用する認め合う心を培おうということである。
誰にでもできるようで、なかなかマスターできない学問である。
このような厳しい人間教育の体験がない人々は、
認められて生きるという意味が理解できない。
民主主義を大上段に掲げるわが国では、
基本的人権が保障されているから、
多少のワガママは許されるが、
諸外国の多くでは、
多少のワガママなど決して許されないことがある。
認められる自分を如何に作るか?
演出、表現力の知恵も必要となる。
とにもかくにも、認められるのは難しい。
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ところで、人は人に認められるために生きていく? ちょっと論調が狂うかもしれませんが、僕はなにも人に認められるために生きていこうとは、思いません。 何のために生きていくのか?もう生きているのだからやるっきゃない。 人さまから後ろ指をさされないよう、世のため人のために生きるのです。 人さまに認められるように打算的に生きていこうとは思いません。 人さまのために生きると言うのがピンときます。 勿論人さまに認められる事は、気持いいです。 でも、それが目的で生きている訳ではありません。 どうもここら辺がひっかりましたのであえて書きました。
人生如何に生きるべきか、なんのために生きるのか、生まれてくる赤ちゃんは、いつの日か考えるのでしょうね? そして答えは、何なのでしょうね?
僕は、考えてもびんてが悪かで考えません。 僕のまわりの人が喜んでくれればそれでいい。 今日も元気が一番だ。30年前にやめたタバコを思い出した。 がきのころ認められたくて吸ってたっけ。 どうもすいません。また、妙な事書きました。 この書いたのって、もう消えないんですって? でもそれって僕が生きてた証になりますね。 こう思うことが人にみとめられるために生きるって事ですかな? 良く分かりませんが、僕は人さまに認められたいからって生きているとは思いません。 結果的に認められればそれは、嬉しいですよね。 南先生は、考える葦を作ろうとなさってる。 僕も頑張って考えます。
See you, Rick Yoshi