僕がアメリカに渡ったのは,30数年昔だ。
学校では、一ドルは360円だと教えられていた時代だ。
片道の旅費と、半年分の授業料だけを手にしての極貧留学だった。
雨が漏るアパート、パンの耳だけの毎日、アジア人しかも鹿児島という田舎からの留学生というだけでの偏見、寝てもさめても授業料・寮費稼ぎのためのバイト・・・
上げればきりがないが、天性のポジティブ思考というのか、苦しいと思った記憶がない。
でも一度だけ、栄養失調か病気かわからないが、体が動かなくなり、一切の食を受け付けなくなったことがある。
一週間余り、学生寮の自分の部屋で苦しんでいた。
これで俺の人生は最後だと思った。
心配して訪れてくれる人は誰もいなかった。
一週間ほど過ぎて夢をみた。
「どんなに苦しくても、這ってでもカフェテリア(学生食堂)に行け!何でもいいから、そこにあるものを口にしろ!」
そんな声を何回も聞いた。何を食べても吐くんだから、食べられるはずはない。
でも、このままのたれ死ぬよりはと、フラフラと幽霊のように500メートルほど離れたカフェテリアに歩いていった。
物凄く遠い距離に思えた。
僕が変な歩き方をしているのに、全く気に留めることもなく、ハーイ!トオル!と、通り過ぎて行く学生達が妙に憎らしかった。
やっとの思いで辿り着き、握り締めたパンを口にした。どこにでも転がっているただのパンだが、19年の僕の人生の中で、こんなにおいしいものを口にした事はない。そんな味がした。
それから数年、困ったときにはいつも、僕の夢が僕の進むべき道の道案内をしてくれるようになった。
純朴な僕の青春時代だ。
父は小学校の教員だったので、僕らは転勤族だった。
屋久島から種子島、そして離島から内地の串木野は羽島と、転々と学校が変わっていった。
今回の死の直面は、とても臭くて、情けない体験だ。
昔は、畑のあちらこちらに肥溜めがあった。
大抵の肥溜めは木蓋がしてあったり、藁で覆われたりしていて見分けが付く。
よっぽど間抜けでないかぎり、肥溜めに落ちることはない。
でも僕は三回落ちた。
一回目は、小学校が火事になったとき、焼け跡の戦利品を探しに行って、表面を焦げた墨で覆われていた肥溜めの中に腰まで飛び込んだ。
二回目は、近所のおばさんが、鶏が逃げたから捕まえてくれと叫んでいたので、
正義感に燃えた僕は、
飛び上がった鶏をジャンプして捕まえたのは良かったのだが、
着地したところが肥溜めの真上、
木の板を踏み破って、そのままどっぷりと胸まで埋まってしまった。
三度目が、死に直面した体験。
田んぼに稲穂を干す竹竿がかけてあり、その竹棹を鉄棒代わりに遊んでいたときだ。
大車輪が勢い余って、竹が折れ、前方の藁に埋もれて隠されていた大きな肥溜めに頭から落ちてしまった。
逆さまなので息ができない。
固まった肥溜めなので、アリ地獄のように体が沈んでいき、身動きできない。
最初はうろたえていた友達だが、しばらくして近所のおじさんを呼びに走り、足を引っ張り上げてもらい、九死に一生を得た。
近くの川まで運んでもらい体中を洗った。
川は黄河となり、トイレの恐怖という怪談が生まれた。
しばらくの間、誰も僕を大丈夫かと抱きしめてくれなかった。臭い仲になりたくなかったんだろう。
こんな素晴らしい体験をした人が他にいるだろうか。
屋久島は小杉谷の小学校3年に在学していたときの体験である。
物凄い台風が吹き荒れた日だった。
突然崖が崩れ、家の外にあった便所小屋が吹き飛び濁流に飲まれていった。壁に穴を開けて、しばらく外の様子を見ていた父が、母と三人兄弟の僕らに、布団を頭に被って家の外に逃げるように叫んだ。家族の全員が家を飛び出して数分後の出来事だった。バリバリという音と共に、家が崩れ落ち川の中に消えていった。避難した近所の家で頂いたおにぎりが、この世の食べ物ともおもえないほど美味しかったのを覚えている。
そして一年が過ぎた。
僕は、幼い頃から自然の中で生きてきた。自然の全てが僕の友達だ。川の土手に大きな鳥もちの木があった。皮を剥いで、石で何回も叩いて、木屑を水で洗い流すと、やがてベトベトの鳥もちができる。これを棒の先にくっつけて小鳥を捕まえるのだ。屋久島の山の川はとても危険だ。急な山の上流の方で降る雨のせいで、突然の激流が起こる。鳥もちの皮を石の上で叩いていた時に、その激流はやってきた。今でも時々頭の周りをたくさんの水の泡が恐ろしく絡みつく様子を思い出すことがある。岩に叩きつけられながら、数百メートル先で自力で這い上がった。体はガタガタ震えていた。真っ青になって駆けつけてくれた人々の顔を見たとき、涙が顔をぐちゃぐちゃにするくらいに溢れてきた。
僕は一生の中で少なくとも八回は死にかけた。貴重な体験だ。一つ一つ思い出しながら、このブログの中に記録として残すことにした。
先ずは一回目の体験だが、僕が3歳ぐらいの時の話だ。
僕は屋久島は宮之浦で生まれた。団塊の世代の最後の世代だ。
日干しの魚(トビウオ)とサツマイモの毎日という、貧しい生活を余儀なくされていた。
大した栄養が行き届いていなかったせいもあってか、この時代は、たくさんの子供が生まれ、たくさんの子供が死んでいった。
それでも僕は、3歳までは、たいした病気もしないで生き延びてきた。
3歳になった真冬のある日、ひどい肺炎にかかってしまった。
瀕死の僕を抱えて、母は病院に駆け込んだ。
医者の答えは残酷だった。
「残念ながら助かりません。」
希望を失った母は、死にかけた僕を抱いて家に帰った。
父方の祖父(南 熊城)はあきらめなかった。
囲炉裏に、こうこうと火を焚いて、鍋に湯を沸かし、その湯にタオルを浸して、熱いタオルを何回も何回も僕の胸にあてた。
祖父は、こんな治療を、ほとんど寝ることなく三日三晩続けたそうだ。
僕は奇跡的に命を取り戻した。
母の愛と祖父の祈りで、僕は今、こうして元気に生きている。