語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

書評:丸谷才一『星のあひびき』 ~書評の妙、そして大岡文学に対する高い評価~

2010年12月18日 | ●丸谷才一
 『星のあひびき』は、読みやすい。
 その理由の第一は、論旨明快にして、悠揚迫らぬ自在な語り口だ。ただし、これは著者の文章全般に通じることで、本書に限った話ではない。
 第二は、本書に収録された文章の多くは概して短くて、すばやく読みとおせるからだ。巻末の初出一覧にざっと一読すれば明らかだが、多くはさまざまな新聞に掲載されている。当然、字数が限られる。簡潔にならざるをえない。

 ここですこし横道にそれるなら、巻末の初出一覧は編集者が作成したのだろうが、誤りが少なくとも1ヶ所ある。
 「Ⅲ 随筆的気分」の冒頭を占める「わたしたちの歌仙」は岩波文庫の『歌仙の愉しみ』に所収とあるが、岩波文庫ではなくて岩波新書だ。この本のまえがき的位置に置かれた解説である。
 小林秀雄は、水のなかに酸素があるごとく翻訳に誤訳は付きものだろう、と弁明とも開き直りともとれる警句を放った。しかし、翻訳はまだよい。小説の構造がうまく移してあれば、誤訳がすこしあってもさしつかえない。しかし、書誌は細部の事実が命である。文学のしろうとでも気づくような誤りは、一掃してもらいたい。

 第三として本書の構成の妙を挙げることができる。「Ⅰ 評論的気分」で正面きった文学談義、「Ⅱ 書評35本」で著者が力を入れてきた書評の見本をずらりと展示し、「Ⅲ 随筆的気分」で軽い雑談、「Ⅳ 推薦および追悼」で威儀をたださせる。最後に「Ⅴ 解説する」で、にさまざまな機会にあらわした解説を並べ、引き締める。

 「Ⅰ 評論的気分」では、たとえば「サントリー学芸賞のこと」で、この賞は新進の評論を的確に評価してきた、という。その実績、その偉容を示すものが非売品の『サントリー学芸賞選評集』だ、と。鹿島茂や塩野七生、藤森照信や田中優子もこの賞に励まされ、その後の活躍で現代日本文化を豊かにしてきた。賞の権威によって名を上げる書き手もいるが、書き手のその後が賞に権威を付与する場合もある。サントリー学芸賞は、後者だ。
 それは、選者の眼がたしかだからだ。著者はいう。「特筆に価するのは、その選評の質の高さである。一篇がたいてい四百字詰原稿用紙三枚半で、普通の賞のそれよりも有利なことはたしかだが、内容の紹介ぶりと言ひ、美点や特質の賞揚の仕方と言ひ、ほとんどすべての選評が模範的な出来ばえを見せてゐる。とりわけすばらしいのは類書のなかに当該書を位置づける大局観のたしかさだ」
 そして向井敏の選評を例に引くのだが、引用される選評も賞揚されるにふさわしくスバリと言ってのけているし、引用した選評に係る「・・・・と評するあたりの視野の広さは、わが国の書評に乏しいものである」という著者の評は、それ自体広い視野を要求されているし、それだけの実績を著者は積んでいる。

 「Ⅰ 評論的気分」には、上記のような書評に関する書評のような一文があるし、正面きって書評を論じた「書評文化を守るために」もある。
 これを(本書における)理論とすれば、その実践が「Ⅱ 書評35本」だ。
 とりあげた本は、文学に限定しない。たとえば「健気で勝気で賢い娘の母恋ひの物語」はノンフィクションで、船曳由美による聞き書きの筋の紹介に紙数のほとんどを充てる。、継子の苦難と、それをはねのけて成長する物語だ。しかし、筋の単なる要約では終わらせない。著者は、末尾に記す。
 「実を言ふと『100年前の女の子』はもつと多彩で多面的な本で、北関東の民俗学的な記録、住民の風俗の描写、動物たちの生態の思ひ出など、まことに楽しい。しかし最も印象的なのは健気な女の子の母恋ひの物語だ。今も著者が老人ホームに訪ねると、テイはときどき抱きついて泣きじやくり、呻くやうに言ふ。/ --わたしにはおつ母さんがゐなかつた・・・・」
 引用も芸のうち。母恋いという、日本人のみならず万民に普遍的な情に訴える視点をもちだし、こういう泣かせる引用で巧みに締めくくられると、読者は一読したくなる。文章の芸である。

 Ⅲ以下を紹介する代わりに、評者が殊に読みやすく感じる理由を追加しておこう。
 それは、わが大岡昇平が非常に高く評価されている点だ。「近代日本文学は、小説中心であるとよく言われる。代表的な文学者を三人あげるなら、夏目漱石、谷崎潤一郎および大岡昇平だ」(「わたしと小説」)と書く。あるいは、「戦後日本最高の作家は、やはり大岡昇平なのではないか」(「女人救済といふ日本文学の伝統 -大岡昇平『野火』『『花影』』『ハムレット日記』『黒髪』『逆杉』-」)とも書く。
 また、本書でも言及されているのだが、著者が関与した「日本文学全集」の巻立ては、漱石3巻、谷崎3巻、鴎外3巻、大岡2巻で、戦後作家で2巻は大岡だけだった(丸谷才一/三浦雅士/鹿島茂『文学全集を立ちあげる』)。ちなみに、収録するべき作品として名があがっているのは、長編小説の『俘虜記』『野火』『花影』に短編小説の『来宮心中』『逆杉』『黒髪』、そして記録文学の白眉『レイテ戦記』だ。
 かくて、「この作家の高い評価はほぼ確立したやうに見受けられる」(前掲(「女人救済といふ日本文学の伝統」)とまで極言する。

 個々の作品に対する評価から文学史的鳥瞰まで。筒井康隆の文体論(「辞書的人間」)から日本文学史上最高の巨漢、篠田一士の『世界「食」紀行』に対する友情あふれる解説(「健啖家にして美食者」)まで。
 本書は、批評の理論と芸の見本市である。

□丸谷才一『星のあひびき』(集英社、2010)
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