語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【松田道雄】革命と市民的自由 ~支配される側の個人の尊厳~

2016年08月28日 | 批評・思想
 
 (1)『革命と市民的自由』は、一個の市民として筋をとおした町医者、松田道雄の代表作の一。
 雑誌「展望」1968年10月号から1969年12月号までの連載に、雑誌「人間として」1号(1970年3月刊)掲載の一編を加えて一巻とした。『ロシアの革命』(河出書房、1970/「世界の歴史」第22巻)を書く過程で生まれた副産物だ。
 スターリン批判という点からすると、本書が主著となり、『ロシアの革命』は参考書となると松田はいう。

 (2)本書の総題ともなった論考「革命と市民的自由」は、A・D・サハーロフの冊子『進歩、平和的共存および知的自由に関する思案』(松田仮訳)について論じる。
 サハーロフは、当時47歳、水爆を開発したソ連最高の物理学者、社会主義労働英雄勲章・国家功労賞・レーニン賞の三つの賞をうけているアカデミー会員。『思案』は本文50ページばかりのうすっぺらな冊子で、1968年6月に最初ソ連の「サムイズダート」から出版されたという。自己出版所である。公然のものではないということだ。
 核戦争の最高の専門家として、サハーロフは主張する。
  (a)パワーポリティクスによる国際政治の原則を改めよ。それには情報の自由な交換を妨げている人類の絶縁状況を克服せよ。
  (b)人類社会には知的自由がなくてはならぬ。つまり、情報をうける自由、情報を広くあたえる自由、先入観のない、顧慮のない判断の自由、抑圧と偏見からの自由だ。この知的自由はいま地球上で三つ脅威をうけている。①計算された大衆文化の阿片、②憶病で利己的な町人的イデオロギー、③官僚寡頭支配の化骨したドグマティズムとその愛好する武器、イデオロギー検閲。
 サハーロフは、人類の拠るべき支えとして「世界人権宣言」をあげる。

 (3)サハーロフの文章のなかに市民的自由ということばがでてくるが、ソ連では市民的自由がどうなっていたか。
 市民的自由のなかで、もっとも大事なのは、言論、出版、集会、結社、示威の自由だと思われるが、ソ連憲法にも、その自由は保障されると書いてある。ただし、この憲法第125条は、市民的自由のまえに前提がある。「社会主義制度を堅固にする目的」に適う場合だ。サハーロフが「ガスイスダート」(国立出版所)から出版できなかったのは、「社会主義制度を堅固にする目的」にそわないと検閲官によってみとめられる可能性が大きかったからだろう。
 市民的自由というのが、時にはパン以上に生活必需品であることは、支配される側にいないとわからない。
 はっきり、支配者の立場から市民的自由についてカウッキーに返事しているのはトロッキーだ。彼は『テロリズムと共産主義』のなかでいっている。階級と階級が決戦状態にあるときは、市民的自由などというものはありえないと。
 だが、おなじトロッキーが支配者から支配される者に転落すると、もう少し違ったことをいう。『テロリズムと共産主義』から16年後にかかれた『裏切られた革命』のなかでは、こういう箇所がある。
 <新憲法は市民に、言論、出版、集会および街頭示威の「自由」を「保証」している。だが、これらの保証のどれもが固い口籠か、または鎖か手錠の外観をまとっている。出版の自由は容赦のない事前検閲の存続を意味する。そこの連中は、誰にもわからない中央委員会の書記局とつながっている。ビザンチン式の親方への連?を印刷する自由は、完全に「保証」されているのは、もちろんである>
 市民的自由の必要は支配する側に立っていては絶対わからないものだ。支配の理論が支配的になってしまうと、支配される者まで市民的自由の貴さを忘れてしまうことがあるから厄介だ。
 
 (4)個人の尊厳について、ロシアのインテリゲンチアほど深く考えたものはなかった。ロシア・マルクス主義はナロードニキから、その組織論だけを相続して、思想を捨ててしまったのだ。
 ロシアの最初の社会主義者とされるゲルツェンは、レーニンが追想をかいたおかげで、革命の聖者の列に加えられているが、彼の理論をロシア・マルクス主義に接木しようという試みは、どれもうまくいっていない。
 ゲルツェンの思想をたんなるナショナリズムとするのは、彼の思想を過小にみることになろう。ゲルツェンはマルクス主義を理解できなかったと考えるのもおなじあやまりをおかすものだ。ゲルツェンは、もうすこし視野の大きい思想家だった。彼はマルクス、ヘーゲルを含めて19世紀の合理主義のフランス革命弁護論に批判的だった。フランス革命は18世紀の楽天的な進歩の理論の夢の実現だった。その結果をゲルツェンは失敗とみたのだ。それが1948年にもう一度試みられて、もう一度失敗したのを彼は目撃しえたと信じた。
 彼は1948年イタリーとフランスにいて革命を傍観した。そこで彼は革命の被害者としての市民をみた。ゲルツェンは1948年から50年にかけて血ぬられた7月の体験を『向こう岸から』のなかにかきつけた。そこでのゲルツェンの立場は、「迫害されているが、征服されないもの」のそれだった。
 ゲルツェンにとって人間の尊厳こそが最高の価値であり、そこからヨーロッパの革命は評価されるべきであった。その立場からすると、彼にはヨーロッパはすでに老い、その没落はさけられないように見えた。
 ひとりひとりの人間の尊厳を、未来にでてくるであろう大きな全体的なものの犠牲にしないという思想は、ロシアのインテリゲンチアがヨーロッパの進歩の思想にたいして抱いた反発だった。進歩には賭けないで、しかもロシア人民の人間的尊厳をきずつけているツァーリ専制をどうして倒すかが、ゲルツェン以後のロシアのインテリゲンチアの課題だった。

 (5)ゲルツェンよりすこしおくれて登場して、28歳で溺死したピーサレフは、プラトンの「共和国」の思想を拒絶した。「共和国」の原理はその後のヨーロッパに大きいかかわりをもつと信じたからだ。
 <プラトンの共和国は官吏、戦士、商人、奴隷、女性からなりたっているが、どこにも人間がいない・・・・プラトンの意見によると、支配者は彼らの支配するものにたいして何らの義務を負っていない、だから欺瞞も暴力も恣意も政府の手段とみとめられている。個人を束縛する道徳律は政治家にはあてはまらない>
 「ピーサレフのプラトンの理想論」をつらぬくものは、支配されるものの論理だ。
 1870年代のナロードニキの「思考の支配者」といわれたラブロフの『歴史書簡』は、革命の福音書だった。そこでは、ラブロフにとって進歩とは、道徳的理想の実現だった。その道徳の中心になるのは「私」だった。
 1890年代のナロードニキの中心的理論家だったミハイロフスキーの評論集は『個性のための闘争』という名でだされた。
 ドストイェフスキーがその全作品で問うたのは、個人の尊厳の問題だった。
 このすべての知的遺産はボリシェヴィキによって放棄された。ゲルツェンの全集こそでたが、ラブロフもミハイロフスキーも完全消毒の選集しかでていない。

 (6)自由は基本的人権の重大な要素だが、ソ連では自由は階級に密着して人間からはなれてしまった。それは自由ということばの二義性がうまくかくれみのにされた。バスチーユの壁をこいわしにいく群衆の口々にさけぶ自由とは、古い圧制者たちを全体として否定する合言葉だ。虐げられているのは、われわれすべてだ。われわれすべてに共通した自発的な意志が自由だ。それは支配者になろうとする人民の自由だ。しかし、人民は被支配者にもなる。そのときの自由とは何か。その自由とは基本的人権の壁によって守られた内側の自由だ。この自由をもっとも早く気づいたのはルソーであろう。
 <わたしは、人間の自由というものはその欲するところを行うことにあるなどと考えたことは決してない。それは欲しないことは決して行わないことにあると考えていたし、それこそわたしがもとめてやまなかった自由、しばしばまもりとおした自由なのであり、またなによりもそのために同時代人を憤慨させることになったのだ>【「第六の散歩」】

□松田道雄『革命と市民的自由』(筑摩書房、1970)
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 【参考】
【医療】人間の威厳について ~安楽死~
【松田道雄】京ことば、その表層と深層

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