goo blog サービス終了のお知らせ 

語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【読書余滴】ビュリダンの驢馬 ~実験神経症~

2010年06月13日 | 心理
 餓えて、しかも渇ききった驢馬が左右二方向に道が分かれた辻に立っている。道の先のまったく同じ距離に、一方には水、他方には干し草が置かれている。驢馬は、どちらを先に口にしてよいかと惑う。水を選べば、口にできなかった干し草を思い、悔悟と不安に苛まれる。干し草を選んでも、同様だ。かといって、どちらも選択しないでいると、飢え、かつ、渇いたまま死ぬ。・・・・14世紀のスコラ学者ジャン・ビュリダンは、そう説いたと伝えられる。

 高橋和巳は、どちらでもよいから、どちらかを先に口にして、しかるのち残った方に手を、いや口を出せばよい、と簡単に片づけている(『孤立無援の思想』)。観念過剰な高橋和巳は、意外と実際的な人だった。プラグマティスト桑原武夫の講義にダーッとなった余波か。
 しかし、この実際的な処理は、若干のタイムラグがあるにせよ結局は両者とも手に入ることを前提とする。一方を選択したら他方を得ることはできない場合、コンフリクト(葛藤)は深まる。
 クルト・レヴィンは、(1)接近-接近コンフリクト(ビュリダンの驢馬)、(2)回避-回避コンフリクト(前門の虎、後門の狼)、(3)接近-回避コンフリクト(フグは食いたし、命は惜しし)の3類型に分類した。
 レヴィン学派やニール・E・ミラーらエール学派はコンフリクト理論を深めた。
 コンフリクトは、パブロフの犬と同様の実験神経症をもたらす、とされる。 

 スピノザは、『エティカ』第二部定理49注解にいう。「第四の反対は、次のようになされる。もし人間が自由意志にもとづいてはたらくのではないとしたら、ピュリダンの驢馬のように平衡状態にある場合、どんなことがいったい起こるのであろうか。彼は餓えと渇きのために死んでしまうのであろうか。もし私がそれを認めるならば、驢馬または人間の彫像を考えて、じっさいの人間を考えていないように見えるであろう。これに反して、もしそれを否定するならば、彼は自分自身を決定するであろう。したがって彼は、自分の欲するところへ行く能力、欲することをなそうとする能力をもっていると」

【参考】バルフ・デ・スピノザ(工藤喜作/斎藤博訳)『エティカ』(中公クラシックス、2007)
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

    バールーフ・デ・スピノザ
   

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 書評:『モサド情報員の告白... | トップ | 書評:『名人傳』 ~もうひ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。
ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

心理」カテゴリの最新記事