春夏秋冬・・・・それぞれの季節がもたらす季感は、詩人をして詩を生ましめた。
秋・・・・杜甫は病みがちの身を一人高台に登らせ(万里悲愁常作客/百年多病独登台)、ライナー・マリア・リルケはいよいよ孤独を深めた(Wer jezt allein ist, wird es lange bleiben)。ジャック・プレヴェールは海の波をしてすべてを洗い流させしめ(Et la mer efface sur le sable/les pas des amant desunis )、中川宋淵は石の声を聞いた(秋ふかく石がささやく石の声)。
おしなべてどうも陰気だ。
ここでは、豪華絢爛たる秋の詩をとりあげよう。
いまや廃語の古語を駆使して組み立てているから、とっつきにくく人口に膾炙しないが、散策のとき口ずさむと(中原中也的にいえば)テムポ正しく歩むことができる。この季節の宴会で披露してもよい。カラオケに倦んだ紳士淑女諸氏諸嬢の喝采をうけること、まちがいない(ただし保証はしない)。
泣菫薄田淳介は、詩人、コラムニスト。1877年5月19日、岡山県連島村(現・倉敷市連島町)生。岡山中学中退後、上京。漢学塾の助教で生計を維持しつつ、上野の図書館で独学。詩を発表し、島村抱月に認められたが、病をえて帰郷。以後、関西で暮らし、東京の文壇と距離をおいた。1906年、婚姻。1910年、帝国新聞社に入社。後に大阪毎日新聞社に移った。1915年から、所属紙にコラム「茶話」を連載。1917年、パーキンソン病に罹患。1945年10月9日、没。享年68歳。
著書は、詩集『暮笛集』『白羊宮』、エッセイ集『茶話』『艸木虫魚』、ほか。
掲詩は、明治38年(1905)11月、「中学世界」冬期増刊号に初出。
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、
あかつき露(づゆ)に髪ぬれて往きこそかよへ、
斑鳩へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の
黄金の海とゆらゆる日、
塵居の窓のうは白み、日ざしの淡(あは)に、
いにし代の珍(うづ)の御経(みきやう)の黄金文字、
百済緒琴(くだらをごと)に、斎(いは)ひ瓮(べ)に、彩画(だみゑ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、斎殿(いみどの)深(ふか)に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは酔はめ。
新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘葉がくれに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ静歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、矮人(ちひさご)の楽人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽身(をばみ)がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木の間に、──これやまた、野の法子児(ほふしご)の
化(け)のものか、夕寺(ゆふでら)深(ふか)に声(こわ)ぶりの、
読経や、──今か、静(しづ)こころ
そぞろありきの在り人の
魂にしも沁み入らめ。
日は木がくれて、諸びとら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭寒(さむ)に、
そそ走(ばし)りゆく乾反葉(ひそりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、楝(あふち)、名こそあれ、葉広(はびろ)菩提樹、
道ゆきのさざめき、諳(そら)に聞きほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見れば、
高塔(あららぎ)や、九輪(くりん)の錆に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの学生(がくしやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、──
ああ大和にしあらましかば、
今日神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫しをも、
知らましを、身に。
【参考】薄田泣菫「ああ大和にしあらましかば」(『薄田泣菫詩集』、新潮文庫、1954年、所収)
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秋・・・・杜甫は病みがちの身を一人高台に登らせ(万里悲愁常作客/百年多病独登台)、ライナー・マリア・リルケはいよいよ孤独を深めた(Wer jezt allein ist, wird es lange bleiben)。ジャック・プレヴェールは海の波をしてすべてを洗い流させしめ(Et la mer efface sur le sable/les pas des amant desunis )、中川宋淵は石の声を聞いた(秋ふかく石がささやく石の声)。
おしなべてどうも陰気だ。
ここでは、豪華絢爛たる秋の詩をとりあげよう。
いまや廃語の古語を駆使して組み立てているから、とっつきにくく人口に膾炙しないが、散策のとき口ずさむと(中原中也的にいえば)テムポ正しく歩むことができる。この季節の宴会で披露してもよい。カラオケに倦んだ紳士淑女諸氏諸嬢の喝采をうけること、まちがいない(ただし保証はしない)。
泣菫薄田淳介は、詩人、コラムニスト。1877年5月19日、岡山県連島村(現・倉敷市連島町)生。岡山中学中退後、上京。漢学塾の助教で生計を維持しつつ、上野の図書館で独学。詩を発表し、島村抱月に認められたが、病をえて帰郷。以後、関西で暮らし、東京の文壇と距離をおいた。1906年、婚姻。1910年、帝国新聞社に入社。後に大阪毎日新聞社に移った。1915年から、所属紙にコラム「茶話」を連載。1917年、パーキンソン病に罹患。1945年10月9日、没。享年68歳。
著書は、詩集『暮笛集』『白羊宮』、エッセイ集『茶話』『艸木虫魚』、ほか。
掲詩は、明治38年(1905)11月、「中学世界」冬期増刊号に初出。
ああ、大和にしあらましかば、
いま神無月、
うは葉散り透く神無備(かみなび)の森の小路を、
あかつき露(づゆ)に髪ぬれて往きこそかよへ、
斑鳩へ。平群(へぐり)のおほ野、高草の
黄金の海とゆらゆる日、
塵居の窓のうは白み、日ざしの淡(あは)に、
いにし代の珍(うづ)の御経(みきやう)の黄金文字、
百済緒琴(くだらをごと)に、斎(いは)ひ瓮(べ)に、彩画(だみゑ)の壁に
見ぞ恍(ほ)くる柱がくれのたたずまひ、
常花(とこばな)かざす藝の宮、斎殿(いみどの)深(ふか)に、
焚きくゆる香ぞ、さながらの八塩折(やしほをり)
美酒(うまき)の甕(みか)のまよはしに、
さこそは酔はめ。
新墾路(にひばりみち)の切畑(きりばた)に、
赤ら橘葉がくれに、ほのめく日なか、
そことも知らぬ静歌(しづうた)の美(うま)し音色に、
目移しの、ふとこそ見まし、黄鶲(きびたき)の
あり樹の枝に、矮人(ちひさご)の楽人(あそびを)めきし
戯(ざ)ればみを。尾羽身(をばみ)がろさのともすれば、
葉の漂ひとひるがへり、
籬(ませ)に、木の間に、──これやまた、野の法子児(ほふしご)の
化(け)のものか、夕寺(ゆふでら)深(ふか)に声(こわ)ぶりの、
読経や、──今か、静(しづ)こころ
そぞろありきの在り人の
魂にしも沁み入らめ。
日は木がくれて、諸びとら
ゆるにきしめく夢殿の夕庭寒(さむ)に、
そそ走(ばし)りゆく乾反葉(ひそりば)の
白膠木(ぬるで)、榎(え)、楝(あふち)、名こそあれ、葉広(はびろ)菩提樹、
道ゆきのさざめき、諳(そら)に聞きほくる
石廻廊(いしわたどの)のたたずまひ、振りさけ見れば、
高塔(あららぎ)や、九輪(くりん)の錆に入日かげ、
花に照り添ふ夕ながめ、
さながら、緇衣(しえ)の裾ながに地に曳きはへし、
そのかみの学生(がくしやう)めきし浮歩(うけあゆ)み、──
ああ大和にしあらましかば、
今日神無月、日のゆふべ、
聖(ひじり)ごころの暫しをも、
知らましを、身に。
【参考】薄田泣菫「ああ大和にしあらましかば」(『薄田泣菫詩集』、新潮文庫、1954年、所収)
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