NPOなど非営利の公益活動団体を支援するサイトに「イーココロ!」がある。これを運営する「ユナイテッドピープル」(千葉県いすみ市)の関根健次社長は次のように語る。
「被災地支援に何が足りないかを考え、気付いたことを自分のできる範囲で実行に移すことが今必要です。例えば役立つ情報を広く流通させるため、ネットに書き込むだけでも意味がある。長くかかる復興には少しずつ続ける支援が重要。頑張らない、あきらめない--ことが大切です」
以上、今一生「『頑張らない、あきらめない』長期化見据えた支援活動続々」(「サンデー毎日」2011年4月17日増大号)に拠る。
*
●頑張ろう
何とか復興しなければならない。壊れたモノ以上のモノを造ればいい。死を乗り越えて頑張ろう。・・・・これらの言葉は、悪意はなく、被災者のためだろうが、被災者の視点に立っていない。
災害救援とは、被災者一人一人の悲しみを軸として、残された人の気力を温めることだ。消えかかった炎を掌で包んで風をさえぎり、炎を消さないようにするようなものだ。
しかるに、あんたたちは弱っているから私たちがしてやる、と被災していない人は平気で言う。被災者の気力の炎を吹き消すような姿勢を繰り返してきた。
今、「がんばろう」という言葉が世の中にあふれかえっている。
被災した人は歯をくいしばって頑張っている。必死になって耐えている。誰が頑張っていないというのか。「がんばろう」は、苦しい人に対して「頑張れないお前はダメだ」というメッセージになる。
「泣くな」なんて、口が裂けても言ってはいけない。泣いている人の横で静かに座っているような姿勢が大切だ。
●疎開
阪神・淡路大震災では、被災者は復興の妨げになるから積極的に疎開させるべきだという主張が都市計画の研究者に支配的だった。大阪に行けば風呂に入れるし食事もできるのに、何でいつまで被災地にいるんだ、という一般人がいた。
しかし、被災者は、亡くなった家族の近くにしばらくいたい。同じ不幸を体験した者同士で寄り添っていたい。
そういう被災者の思いを理解した上で、「今は十分な食事を提供できないし、寒さもあるから、一時的に疎開しましょう。何ヶ月後にはかこういう形で帰ることができます」と提示しなければならない。
被災地ではない自治体が被災者の受け入れを名乗り出るのはよいが、住み慣れた土地から離れて疎開するのはベストの策ではない、ということを理解しておかねばならない。津波の被害を受けた地区にはもう住みたくはないだろう、という推測も、被災していない人が口にするべきではない。これは、気力の炎を吹き消す行為だ。
被災者が今後のことを考えるようになるのを待つべきだ。癒されるには時間が必要だ。救援するためには、被災者の時間を生きなくてはならない。被災していない人の時間を押し付けてはいけない。
大事な人を亡くした人が元気に動き回ったりするのは、苦しさを紛らわせようとしているだけのことだ。
遺体が見つからない場合、残された人は、亡くなった人に何もしてあげられないという罪責感は増す。自分が生き延びたことで、自分を責めてしまう。
被災者を切り捨てようとするから、早めに合同慰霊祭をやって、あとは時間の区切りごとに記念の催しをやればいい、ということになる。
●「心のケア」
阪神・淡路大震災の時、「心のケア」という歪んだ動きが起きた。心が傷ついたなら絆創膏を貼ればいい、というイメージはとんでもない。
災害時の精神医学で重要なのは二つ。
(a)被災した人の信頼度を高めるよう救援全体のグランドデザインを描くこと。
(b)本当に病的な状態にある人に対してのみ治療すること。
「心のケア」という言葉は浮ついている。PTSDは、あくまでも死の恐怖にさらされて無力感を抱いた人の外傷体験だ。
避難所生活が長引いて、仮設住宅にいつ入居できるのか、どれぐらい我慢すればいいのか、という悩みはPTSDではない。心のケアの対象ではない。行政や社会が創り出す被災者への負荷だ。これを「心のケア」がストレスに起因するものだ、とぼかしてしまった。
以上、野田正彰「『がんばろう』は『頑張らないお前はダメ』のメッセージになる ~災害救援の思想~」(「サンデー毎日」2011年4月17日増大号)に拠る。
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「被災地支援に何が足りないかを考え、気付いたことを自分のできる範囲で実行に移すことが今必要です。例えば役立つ情報を広く流通させるため、ネットに書き込むだけでも意味がある。長くかかる復興には少しずつ続ける支援が重要。頑張らない、あきらめない--ことが大切です」
以上、今一生「『頑張らない、あきらめない』長期化見据えた支援活動続々」(「サンデー毎日」2011年4月17日増大号)に拠る。
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●頑張ろう
何とか復興しなければならない。壊れたモノ以上のモノを造ればいい。死を乗り越えて頑張ろう。・・・・これらの言葉は、悪意はなく、被災者のためだろうが、被災者の視点に立っていない。
災害救援とは、被災者一人一人の悲しみを軸として、残された人の気力を温めることだ。消えかかった炎を掌で包んで風をさえぎり、炎を消さないようにするようなものだ。
しかるに、あんたたちは弱っているから私たちがしてやる、と被災していない人は平気で言う。被災者の気力の炎を吹き消すような姿勢を繰り返してきた。
今、「がんばろう」という言葉が世の中にあふれかえっている。
被災した人は歯をくいしばって頑張っている。必死になって耐えている。誰が頑張っていないというのか。「がんばろう」は、苦しい人に対して「頑張れないお前はダメだ」というメッセージになる。
「泣くな」なんて、口が裂けても言ってはいけない。泣いている人の横で静かに座っているような姿勢が大切だ。
●疎開
阪神・淡路大震災では、被災者は復興の妨げになるから積極的に疎開させるべきだという主張が都市計画の研究者に支配的だった。大阪に行けば風呂に入れるし食事もできるのに、何でいつまで被災地にいるんだ、という一般人がいた。
しかし、被災者は、亡くなった家族の近くにしばらくいたい。同じ不幸を体験した者同士で寄り添っていたい。
そういう被災者の思いを理解した上で、「今は十分な食事を提供できないし、寒さもあるから、一時的に疎開しましょう。何ヶ月後にはかこういう形で帰ることができます」と提示しなければならない。
被災地ではない自治体が被災者の受け入れを名乗り出るのはよいが、住み慣れた土地から離れて疎開するのはベストの策ではない、ということを理解しておかねばならない。津波の被害を受けた地区にはもう住みたくはないだろう、という推測も、被災していない人が口にするべきではない。これは、気力の炎を吹き消す行為だ。
被災者が今後のことを考えるようになるのを待つべきだ。癒されるには時間が必要だ。救援するためには、被災者の時間を生きなくてはならない。被災していない人の時間を押し付けてはいけない。
大事な人を亡くした人が元気に動き回ったりするのは、苦しさを紛らわせようとしているだけのことだ。
遺体が見つからない場合、残された人は、亡くなった人に何もしてあげられないという罪責感は増す。自分が生き延びたことで、自分を責めてしまう。
被災者を切り捨てようとするから、早めに合同慰霊祭をやって、あとは時間の区切りごとに記念の催しをやればいい、ということになる。
●「心のケア」
阪神・淡路大震災の時、「心のケア」という歪んだ動きが起きた。心が傷ついたなら絆創膏を貼ればいい、というイメージはとんでもない。
災害時の精神医学で重要なのは二つ。
(a)被災した人の信頼度を高めるよう救援全体のグランドデザインを描くこと。
(b)本当に病的な状態にある人に対してのみ治療すること。
「心のケア」という言葉は浮ついている。PTSDは、あくまでも死の恐怖にさらされて無力感を抱いた人の外傷体験だ。
避難所生活が長引いて、仮設住宅にいつ入居できるのか、どれぐらい我慢すればいいのか、という悩みはPTSDではない。心のケアの対象ではない。行政や社会が創り出す被災者への負荷だ。これを「心のケア」がストレスに起因するものだ、とぼかしてしまった。
以上、野田正彰「『がんばろう』は『頑張らないお前はダメ』のメッセージになる ~災害救援の思想~」(「サンデー毎日」2011年4月17日増大号)に拠る。
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