語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【震災】われらは何をなすべきか ~叡智結集41人(抄)~

2011年04月11日 | 震災・原発事故
●堺屋太一「三度目の『敗戦』を日本新生の機会とせよ」
 災害対策には、救助、救済、復旧、復興、振興までの5段階がある。
 救助の段階は過ぎ、救済の段階に入った。今後は、物資の調達、分配、輸送が重要になり、ますます全体指揮の司令塔が必要だ。
 復旧から復興の段階に進むと、生活の安定、産業経済、文化楽しみの三つをどう均衡させるかが難しい。被災1ヵ月を過ぎると、この配分が大事になる。「自粛不況」なっては、生活の安定も未來への希望も失われてしまう。
 三つの均衡を保つには、「これから必要なのは、世間の風にも省庁の権限や慣例にも捉われない長期総合視点での司令塔である」。
 今回、「戦後日本をそのまま再現しようとするのでは、日本の新生はあり得ない。この災害をばねに、新しい発想と仕組みを持った日本を創造すべきである」。
 (1)まずやるべきは、戦後日本をリードしてきた官僚主導・業界協調の体制の否定だ。真に創造的自由のある体制を築くことだ。「それにはまず、官僚を有資格なら出世する『身分』から、有能有志の者が適職に就く『職業』に変えることだ。適任者が適所に就いてこそ、この国の発展はあり得る」 
 (2)外国を恐れぬ心理と情況を作ることだ。
 (3)東京一極集中の形を地域主導型の道州制に変えることだ。経済復興を口実に、権限と財源で官僚たちが一段と地方を締めあげ、疲弊させるのは避けなければならない。資金援助と権限的拘束とは別もの、地域の実体こそ大切だ。
 (4)好老文化、高齢者が誇りと楽しみを持って生きられる税制や家族制度に変えることだ。高齢者が誇り高く楽しめる世の中にすれば、この国には巨大な需要と新鮮な文化が生じる。「今こそ、日本が高齢化世界をリードする『好老文化』を創る好機である」

●曽根綾子「超法規の世界」
 原発が機能しなくなると電力は不足する。一時的にではあるが、民主主義の機能も停止せざるをえない。
 「一時的民主主義の停止が起きると、そこでは暫定的にだが超法規的な支配の必要性が出て来る」
 若い人ほど、超法規という状態に対処しきれていない。「記者会見の場から聞こえて来る若いマスコミ人の質問の愚かさは聞くに耐えなかった。とにかく現代の人は、マニュアルや法規がないと何とも思考が動かないのだ」
 「どうして孤立した被災者に初期から空中投下(エアードロップ)という手段で、食物、水、布団、薬、使い捨てカイロなどを届けなかったのか。重機不足の場合には、廃材はその場で、暖をとるためや炊事用の燃料に使ってどんどん利用できたはずだ」

●佐野眞一「精神の瓦礫」
 寺田寅彦は言った。
 危機に臨んで最も大切なのは、「怖がりすぎる」ことでも、「怖がらない」ことでもなく、「正当に怖がる精神だ」。

●池内恵「復興期の精神」
 「東京に寄り集まって、本社にしがみついていないと出世できない会社や組織はつぶれてしまえばいい。始終顔を突き合わせて、同質化圧力をかけ合っているから、良い知恵が出ないのだ。個人と企業が自らの知恵と労力を絞って全国各地に、世界各国に資産と活動の拠点を分散しておけば、東京に電気が来ない、放射性物質が来る、となっても困ることはない」
 「国内の雇用を守って競争に敗れるのではなく、海外に出て日本企業を動かしていける日本人を飛躍的に増やすことだ」

●佐々淳行「統一地方選で民主党に『天罰』を」
 「福島、宮城の地方自治組織が大津波で壊滅した今日、『災害対策基本法』の『経済戒厳令』とよはれる、総理直率の『緊急災害対策本部』の設置は誤りだった。総理に権限を集中すると総理の無能ぶりが拡大されてしまう。自衛隊、警察、消防、海保を主軸とする『安全保障会議設置法』による官房長官指揮の国家安全保障体制を、今からでも遅くない、直ちに軌道修正することを、国民として強く要求すべし」

●香山リカ「がんばりすぎてはいけない」
 震災が発生する前から、日本は山積みする問題で息切れ状態、国家的規模のうつ病に陥っていた。負けじ魂に火がつき、力が戻ってきたかのような「自分ができることをしよう」と奮い立つ人たちは、「生命の危機に瀬したときに生きものの見せる一過性の反応である可能性が高い」。
 震災前には、振り絞れる力は、それほど残っていなかったはずだ。
 「今回の震災では、テレビからの映像、ツイッターなどで流される情報の量は、明らかに人間の処理能力を超えていた。この過剰な映像、情報により、被災地以外の人々も、二次災害とも言うべき心のダメージを負っていることは間違いない。さらに原発からの放射能という“目に見えない敵"への不安ほど、人の心にとってストレスになるものはない」
 「がんばり続けるためにも、がんばりすぎてはいけない」

●猪瀬直樹「『日常性が終わった』」
 「明治時代は国難をいかに乗り切るかという大きなテーマのなかでたくさんの個人の小さな葛藤が生まれた。復旧そして復興は、個々の日本人がどういう新しい公共を築くか、ヴィジョンと倫理が試されているのだと思う。犠牲者のためにも、ここは失敗できない。政治家が信頼できないなら、技術で、芸術で、あるいは平凡に見えるかもしれないそれぞれの持ち場で責任を負うことである」

●板東眞理子「シニア層よ/心意気を見せよう」
 「この際、重要なのは単に元に戻す復興でなく、ビジョンをもって21世紀のあたらしい地域の構築に取り組むことである。たとえば限界集落の高齢者を思いきって都市に集住させ、福祉・医療を充実させる『21世紀地域再生計画』を立てるとか、新しい支援社会の仕組みを考えなければならない」

●イビチャ・オシム「私も日本という家族の一員」
 「人生はこれからも続く。新しい人生を日本はこれから歩めばいい。サッカーでもそうだろう。試合に負けるのは人生の終わりではない。その後も人生は続く。だからこそサッカーは悪くないといえる。敗北はカタストロフだが、それを受け入れて生きながら明日の試合の準備をする。そして勝つこともできる」

●勝間和代「『復旧』でなく/『復興』を」
 一つ目に、「復興」は破壊された建物を元に戻すだけの「復旧」ではない。
 「二つ目に、地震や津波によって破壊されたのは建物だけではなく、その土地の人々のつながりや社会的なネットワークも失われていることを忘れてはいけません。復興事業に被災者など地元の人々を雇用することで、復興後も自立していける経済的な基盤を作る。それが、職業を通じた人的ネットワークを再構築するための起爆剤になります」

 以上、「われらは何をなすべきか ~叡智結集41人~」(「文藝春秋」2011年5月号)に拠る。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

【震災】自衛隊独擅場のワケ

2011年04月11日 | 震災・原発事故
 自衛隊という巨大組織を率いるのが、折木良一統合幕僚長(防大66期)だ。北澤俊美防衛相に密着し、首相官邸に出入りする。現場での救援活動に加え、政治の中枢でも存在感を示す。
 政府と東電により東京電力本店に設置された「統合連絡本部」にも、陸自一佐が陣取る。福島第一原発事故への対応を主導した(官邸との調整役は細野豪志首相補佐官)。
 ただ、放水の段取りなどをめぐって、菅直人首相が自分で考えを指示したため、専門集団たる自衛隊には不満が溜まった。
 「素人の政治家が我々と同じ目線で口出しするため、作業が幾度も停滞した。首相官邸は関係府省を束ねて、大きな方針を示してほしい」

 国家的危機に当たり、政府中枢で各府省を統括して首相を支えるべき内閣官房の西川徹矢副長官補(安全保障・危機管理担当、46年、警察庁)も伊藤哲朗内閣危機管理監(47年、警察庁)も、仕事をしていない。水面下で奔走している気配もない。全くと言っていいほど機能していない。
 首相のマイクロマネジメントと内閣官僚のふがいなさが対応の混乱を招いた。この混乱ぶりが、自衛隊の独擅場を際だたせている。

 防衛相内局(背広組)の影も薄い。中江公人防事務次官(51年、旧大蔵省)は、災害対応を協議する会合で発言の機会が少なく、「うなずきマシーン」と化している。

 民主党政権は、むやみやたらに「政治主導」を叫んできた。官僚依存は避けたいらしいが、機動性と専門性に長け、幅広い事態に対応可能な人員と装備を有する自衛隊にますます依存する結果になった。

 以上、記事「霞が関コンフィデンシャル」(「文藝春秋」2011年5月号)に拠る。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン

【震災】マスコミは使命を果たしたか

2011年04月11日 | 震災・原発事故
 問題点が多い。
 (1)メディアが極めて多様化している。災害時にマスコミが果たす機能が従来とは状況が異なる。
 (2)今回の報道が抉り出しているのは、単なる災害対応ではない。戦後日本が先送りしてきた「体制のゆるさ」そのものだ。
 (3)海外で最初に反応したのが中国国営の新華社通信だ。米国メディアも大量の取材チームを送りこんできた。多数の国籍の外国人・企業が巻きこまれ、各国それぞれの関心と利害をもって見ているのだから、日本の報道も厳しく質を問われる。

 日本の新聞人たちは、日本人の誇りと頑張りを発揮した(日本のソフトパワー)。災害の2分後から、緊急特番を開始して、テレビ5波、ラジオ3波のすべて投入したNHKの総合力が光る。民放各社も大がかりな現地報道の努力がよく伝わった。災害では、まず安否確認だ。役に立つ情報がいい情報だ。
 「緊急事態への対処法整備急げ」と3月17日付け産経新聞「主張」は唱えている。正当な議論だが、16年前の繰り返しだ。だが、こうした提言こそ、マスコミが果たすべき責務だ。現場報道では感動的に頑張ったが、日本の建て直しに係るマスコミの発言は物足りない。

 今回、新たに災害時の有効性を実証したのは、ツイッターとフェイスブックだ。県や市町村が、避難場所・医療機関の所在・給水拠点などの情報提供に使った。使える自治体、使えるユーザーには便利だっただろう。
 NHKがニュースをスマートフォンに配信したり、新聞やテレビが罹災者の消息や細かい救助情報を伝えた。マスコミがニューメディアのあとを追うような、乗っかるような現象が出現した。

 ネット社会の闇の部分は、デマの横行だ。特に原発危機が深刻化してからデマや流言飛語が拡散した。ネット時代のデマ対策には、技術的な工夫も必要だが、「真実を伝えることが最良の対策だ」という大原則は変わらない。
 政府発表に対する疑念と同時に、マスコミは全ての真実を伝えているのか、という懐疑も世間には拭いがたく存在する。小規模ながら略奪も現にあったのだから、報道するべきだった。マスコミがタブーを作っている、と視聴者が感じたら、報道全体に不信を持たれる。

 私(大森義夫)は、阪神・淡路大震災のとき官邸に勤務していた。厳しい批判を受け、爾後抜本対策の策定に従事した。その中心は二点。
 (1)官邸の立ち上がりの遅さ。
 (2)司令塔機能が不明確。
 石原信雄内閣官房副長官(当時)に何か資料はないか、と問われて、米国の連邦緊急事態管理局(FEMA)の概要を持参した。日本版FEMA構想は、霞ヶ関ですぐつぶされた。原発の地震対策を取りあげたら、「国民の不安感を煽るからやめてくれ」と言われた。
 とにかく官邸を24時間体制にしなくてはいけない、ということで、内閣情報調査室に内閣情報集約センターができた。後藤田正晴元法務大臣から、大災害対策をやっておけば、どんな有事にも対応できる、と諭された。
 平成7年6月5日付け読売新聞「地球を読む」に中曽根康弘元総理が提言を寄稿している。いわく、事後速やかな国会への報告(承認が得られない場合は罷免される)を条件に、内閣総理大臣に1ヵ月と期間を限定して包括的な緊急指揮権を付与する、云々。
 後藤田、中曽根両先輩の言葉は貴重だ。憲法の枠内で緊急非常事態に対処するのは、もはや限界なのだ。

 最後にひと言。どんな組織でも、成果はトップリーダーの器量次第だ。村山富市総理は、誠実さにおいては実に立派な日本人だった。「政治パフォーマンスは一切なかった」

 以上、大森義夫(元内閣情報調査室長)「マスコミは使命を果たしたか」(「正論」2011年5月号)に拠る。
     ↓クリック、プリーズ。↓
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ  人気ブログランキングへ  blogram投票ボタン