<写真は辻宏さん帰天5年の集いから引用>
過日の友人の通夜のあと、仲間達で飲みに出かけた。
こうして飲みながら、故人の話を振り出しに、お互いの話など延々と続き、飲み会は渋谷の三次会まで続いてしまった。うつくしきかな、30年以上の仲間達よ。
<心やさしき仲間たち>
すると、仲間のひとりがボソっとこういうのである。
「一神教の葬儀はキビシイよなぁ」
なるほど。通夜というとなんとなく慰霊のような響きがあるが、先日、参会した聖公会聖パウロ教会での今は亡き友人の葬儀は遺体を前にして行う神(God)への礼拝であった。
Godの実在はサイエンスの領域では証明不可能命題なので、自分の立場は不可知論(I am agnostic about it)。別の友人は『書評:愚にもつかない、「神」の証明』を書いているが、まぁ、この立場に近い。
さて、葬儀を通じ死者を生も死も含めた全ての創造者である神に一切を委ねるということが強調された。式次第=プロトコルには、これでもか、これでもかというくらい唱和を含め、三位一体説、贖罪、召天の教えが繰り返された。(残念ながら、その式次第は教会にお返ししなければならなかったので今は手元にはない)
とくに、プロテスタントでは、外形的なものではなく、内面=信仰が重視される。
さて、プロテスタントでは人の死は忌むものではない。死とは、霊が地上の肉体を離れ、天にいる神とイエス・キリストのところに召されることと説明される。
死とは、イエス・キリストの再臨において復活するための準備のために天に召されるということになる。(牧師さんは「召天」と呼んでいたし、会葬挨拶のなかにも「召され」たとちゃんと書いてある。聖歌にも、「主よ、みもとに近づかん」とあった)。
そして死とは、天国において故人と再会できるまでの一時的な別れにすぎないという。そのようなスピリチュアル・サービスとしての会葬には、少なくとも3つの「癒し」のはたらきがあるように思える。
(1)遺族、親族、友人など地上にのこされた人間にとっては、その別れは悲しく寂しいこと限りない。慰められるべきことだ。この残された人間たちへのグリーフケア(悲嘆へのコーピング)。しかし、断じて死そのものは悲しむべき事であってはならないと教義上説明される。残された者にとって、ここに救いがある。
(2)死者が主のみもとに招かれることを牧師がガイドするサービスに参加することによって地上から故人の召天(昇天ではない)支援するスピリチュアル・ケア。
(3)故人を中心に同心円的に形成されてきた、地上の遺族、親族、友人らの共同体の絆を確認させ維持させる。コミュニティ・ケアともいえるだろう。
Godや死後の世界が絶対的なものであれ、人為的に構成されたものであれ、そういったものを媒介にして共創されるスピリチュアル・ケアには、効用があるのである。
リチュアルなものごとの中には、人が十全に生老病死を経てゆくための知恵が埋めこまれている。キリスト教ではGodを中心にそれをデザインしているし、仏教では四諦、「苦」からの解脱という主題を中心にデザインされている。もちろん会派、宗派によって様々なバリエーションがある。
でも、ひかえめに言っても、スピリチュアル・ケア・サービスは、共同体の絆~社会の大事な中心~を保持して育んでゆくためには必須のものだと思う。だから、スピリチュアル・ケア・サービスについては、とてもじゃないがagnosticではいられないのだ。
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