限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

百論簇出:(第99回目)『書評:愚にもつかない、「神」の証明』

2011-01-14 21:21:11 | 日記
以前、キリスト教に凝っているある人と神の存在について話をしていたら、『とにかく、神は存在しますよ!それを証明している本もあるのですから』と言われて、ある本を紹介された。

それは
  『「神」の証明―なぜ宗教は成り立つか』(落合仁司・著)
という、某大学の神学の先生の本だった。

私は神学については、正直な所、知識はほとんど持っていない。ただ、聖書(旧約、新約)は通読したことはあるし、中世および近代の宗教者の本は幾つか読んだことはある。さらには、西洋哲学(形而上学)がプラトン以降、『存在』というものを中心テーマとしていたことも理解している。



それで早速この本を読んでみたが、一言で感想を言えば、
  『証明と名づけるのもおこがましいほどの抜けの多い議論の連続』
であった。私は人の思想や著作に対して、公的に非難することを主義として、好まないのが、この本はあまりにもひどい内容なので、アマゾンの書評に以下の内容を書き込んだ。

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私の批判する要点は下記6点:

【1】神を無限の存在である、と証明もなしに規定している。まず無限集合のうんぬんを証明するまえに、神が有限か無限かの証明を端折ってはいけない。(神学界では常識となっていることかもしれないが、少なくとも本書の読者にその要点と筆者の立脚点を提示すべきである。)

【2】無限集合論がたとえ正しいとしても神が存在している事の証明にはならない。(つまり、無限をもつなにかの存在が証明されたに過ぎない。)

【3】無限の存在ばかり議論していて、次元性(4次元、5次元)の存在に関して触れられていない。つまり、神は無限であるかもしれないが、また次元も超越(つまり3次元の存在でない)している、と考えられるからである。

【4】たとえその存在が認められるにしてもそれが宇宙・世界を造った、統御している、ということは証明されていない。(これも上記1.同様の意見提示に欠落がある。)

【5】神という存在に帰せられている種々の性質(無謬性、性善的)と無限の存在性との関連が議論されていない。

【6】ギリシャ哲学からずっと近代ドイツ哲学まで系譜として続いている『存在』をテーマとした哲学の成果に全く触れていない。(筆者にその方面の知識がないのでは、と邪推されかねない。すくなくとも参考文献にはまともな哲学書の名前が載っていない!)

そして、やるせないのは、さんざんカントールの集合論で無限の存在の証明に関して議論して、神の存在が論理的に正しいと結論づけたにも拘わらず、その舌のかわかないうちに、P.152でゲーテルのその集合論の論理展開を否定(すくなくとも公理系のどこかに論理的欠陥が存在することを証明した)することになっている。

その上、最後のページ(P.173)で宗教は論理的には説明できない信仰するしかない、と断定しているのを見ても明らかなように、タイトルとは裏腹になにも証明したことになっていない、ように私には思われる。

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アマゾンを見ると、この書評を『役にたっている』と評価してくれている人が、現時点(2011/1/14日)で、若干名(10人)いるのは心強い。
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